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[1335]南京の若杉参謀 熊猫 05/10/2(日) 4:13 [添付][添付][添付]
[1336]原因が解りました。 熊猫 05/10/2(日) 4:20
[1337]秋霜烈日の尉官教育 熊猫 05/10/2(日) 21:23
[1338]Re(1):秋霜烈日の尉官教育 熊猫 05/10/2(日) 21:33
[1364]御心労の陛下の親書 熊猫 05/10/8(土) 20:46
[1377]箝口令くぐる怪文書 熊猫 05/10/9(日) 22:34
[1378]白旗かゝげシ江会談 熊猫 05/10/9(日) 23:28
[1339]「三笠宮の怪文書」 ja2047 05/10/2(日) 21:39
[1340]Re(1):「三笠宮の怪文書」 熊猫 05/10/2(日) 22:58
[1344]いやあ、これは面白い ゆう 05/10/4(火) 21:30
[1345]失礼、勘違いしていました。 熊猫 05/10/5(水) 1:10 [添付]

[1335]南京の若杉参謀
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 熊猫 E-MAIL  - 05/10/2(日) 4:13 -

引用なし
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何故か投稿できない.....
私が使っている文字に問題があるのかも.....
試しに添付ファイルで投稿してみます。


36 hits

[1336]原因が解りました。
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 熊猫 E-MAIL  - 05/10/2(日) 4:20 -

引用なし
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   私が投稿できないのは、一部の漢字(第?水準っていうのでしょうか)を使っていたため、「メンバー以外の投稿はできません」となってしまうのです。
試行錯誤から締め出しくらったかと思った・・・・・・ふぅ〜!
39 hits

[1337]秋霜烈日の尉官教育
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 熊猫 E-MAIL  - 05/10/2(日) 21:23 -

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   ゆうさんのページと比較して読んで欲しいのですが、若杉参謀(三笠宮)の尉官教育について書かれた記述です。
>数日後、総司令部大会堂に尉官将校数百人が参集した。壇上には黒板を背にして若杉参謀が立たれ、左右には総軍司令官、以下参謀長、将官、佐官がずらりと居並んだ。陪席という恰好である。
総司令部大会堂→総司令部(元国民政府外交部)の高等官食堂
尉官将校数百人が参集した→百二三十名
若干の表現の違いはありますが、小川哲雄氏木村辰雄氏は二人とも同じ場所にいたものと思われます。
以下、木村辰雄氏の記述を紹介します。(週刊朝日14p〜16p)

秋霜烈日の尉官教育
 若杉参謀の中国における勤務は、昭和十九年一月をもつて終りを告げたのであるが、十八年の暮頃から、在中国一ヵ年間の研究に総結論を下すべく努力せられていた。そして、その結論は「尉官教育」という形式で実現するこせになつた。少佐参謀として尉官教育を実施するということは、極めて自然な成行であつた。教育実施という布告が出されて間もなく、主だつた尉官に対しては、各別に問題が出され、これに対する答案が集められたのである。この間題をつらぬいた課題は正しく「中日事変を解決せねばならぬ支部派遣軍は果して如何にあるべきか」の点に帰納されているようであつた。
 教室には総司令部(元国民政府外交部)の高等官食堂があてがわれ、総司令部、軍事顧問部等、南京にある主要部隊の大、中、少尉約百二三十名が教育のために召集された。総参謀長以下二十余名の参謀も臨席した。教官席の背後には、中共関係の各種統計図表などが掲げられ、黒板も用意された。黒板には「反省」「謙譲」と大書した貼紙が貼られてあつた。相沢侍従武官、侍医中佐と私の三人は記録係として最後列に席を占め、教官たる若杉参謀の来着を待つていた。加藤侍従武官を従えて教室に入られた若杉参謀は、登壇すると、開口一番、現時戦争遂行の状況下において、諸官が、もし軍の態度に関し忌憚のない批判を加え、あるいは、これに対する公平な意見を吐いたとしたならば、諸官の手は恐らく後に廻り、憲兵のために引立てられてしまうであろう。したがつて、その部分は白分が述べるつもりである。
と、極めて激越な句調をもつて冒頭しそれから約二時間にわたる教育が始まつたのである。その内容は尉官連中に異常なセンセイションをまき起し、特殊の感銘を与えたのであるが、惜しい哉、その教育記録は後に述べる理由によつて現在私の手もとにはない。しかも八、九年も前のことであれば、記憶も薄らいでいるけれども、つとめて当時の情景を思い出して書いて見ることにしよう。
一、満州事変
中日事変を抜本的に解決しようとするならば、その因つて来れる根本原因にまでさかのぼつて、冷厳な検討を加える必要がある。それは昭和六年九月十八日に発生した遼寧省柳条溝鉄道爆破事件である。このいかゆる満州事変なるものは、中日関係調整の上に極めて重大な意義をもつものであつて、その発生原因を単なる日本の自衛権の発動に止め一切を頬被りして通すことは許されない。柳条溝鉄道爆破事件なるものが、時の関東軍の謀略によつて発生したことは明らかな事実である。当時、天皇はこの覇道的困素によつて発生した満州事変の拡大を極力防止すべく、朝鮮軍の満州進出を停止するよう再三命令されたのであつたが、現地軍はこれを聞き入れず、朝鮮軍の満州進入となり、遼原の火の如く事変は急速に拡大されていつたのである。
一、芦溝橋事件【盧溝橋事件】
昭和十二年七月七日、華北に発生した芦溝橋事件である。本事件の発生原因については、現地軍は、宋哲元部隊の方が先に発砲したといつている。真相は、あるいは中日両軍対峙の間隙をぬつた中共のゲリラ部隊が発砲し、両軍の戦闘行動を誘発したものであるかも知れない。しかし、要は当時の北支那派遣軍が前記関東軍のあげた戦果と、その行賞に刺激されて、事を構えんとして機会を窺つていたことにある。
前者と同じく謀略の産物である点では、なんら異るところがない。天皇の意思による事変不拡大政策も、現地軍は聞き入れず、敢えて耳を掩うて鈴を盗むの行為をなしたものである。
34 hits

[1338]Re(1):秋霜烈日の尉官教育
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 熊猫 E-MAIL  - 05/10/2(日) 21:33 -

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   引き続き引用します。

一、上海事変
華北事変と前後して発生した上海事変なるものは、満州、華北両事変の影響を受けた上海地方民衆の排日風潮ということはあつたが、満州、華北事変においてあげた陸軍側の戦果に刺激され、この際、海軍の存在を明らかにせんとして、そこに仕組まれた海軍の謀略でなかつたといゝ切れるか。戦闘における上海陸戦隊の失敗は、遂に陸軍大部隊の華中進出を余儀なくし、やがて広大なる大陸の各地域に日本軍の大観模な作戦を見る結果となつたものである。
以上の根本的諸因、真相を極めることなくして、単に現状のみに拘泥し、途中から中日事変の解決処理を急ごうとしても、それは出来ない相談である。「支那事変に賜りたる詔書」を一読してもその間の事情は容易に判明する。すなわち、この詔書の中には「隠忍自重」という文字がある。戦争をするのに隠忍自重しなければならぬという如き馬鹿げたことが古来あるべきはすがないではないか。言葉を換えていうならば、支那事変なるものは、現地軍が勝手に謀略戦争を行い、その後で、陛下に尻ぬぐいをさせたものと断ぜざるを得ない。
38 hits

[1339]「三笠宮の怪文書」
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 ja2047  - 05/10/2(日) 21:39 -

引用なし
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   ▼熊猫さん:
初めて聞く言葉だったので、何のことだろうと思ったのですが、
こういうことのようですね。

「三笠宮は、自分の講演記録をタイプ印刷して、総司令部の参謀以上に配付した。しかし、三笠宮が東京に転勤するやいなや、この記録はすべて集められ、焼却されたのである。ところが、三笠宮の信頼厚いある参謀が、別に印刷して、若手将校に配って回っていたという話もあって、「三笠宮の怪文書」として広くしられることになった。
 この怪文書なるものが、戦後40年ほどして、防衛研究所などから発掘され、全貌が明らかになった。「支那事変ニ対スル日本人トシテノ内省(幕僚用)」というタイトルで、便箋27枚のものだ。」
http://homepage3.nifty.com/tetuh/202.html

知りませんでした (^^;
38 hits

[1340]Re(1):「三笠宮の怪文書」
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 熊猫 E-MAIL  - 05/10/2(日) 22:58 -

引用なし
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   ▼ja2047さん:
>「三笠宮は、自分の講演記録をタイプ印刷して、総司令部の参謀以上に配付した。しかし、三笠宮が東京に転勤するやいなや、この記録はすべて集められ、焼却されたのである。ところが、三笠宮の信頼厚いある参謀が、別に印刷して、若手将校に配って回っていたという話もあって、「三笠宮の怪文書」として広くしられることになった。
> この怪文書なるものが、戦後40年ほどして、防衛研究所などから発掘され、全貌が明らかになった。「支那事変ニ対スル日本人トシテノ内省(幕僚用)」というタイトルで、便箋27枚のものだ。」
>http://homepage3.nifty.com/tetuh/202.html
>
>知りませんでした (^^;

週刊朝日『南京の若杉参謀』木村辰雄より
【引用開始】--------
その時フト一年半前に若杉参謀が私に下さつた「尉官教育の記録」をまだ所持していたことを思い出し、甫京帰還後、私は独断でその書類を中国陸軍総司令部宮其光少将経由、蒋介石最高統帥のもとまで出した。
 ほどへて、宮其光少将から、ねんどろな返事が伝えられた。「将最高統帥は記録を読まれて、非常な喜びの情を示された」という言葉であつた。
【引用終了】--------
木村氏の記述によると、少なくとも蒋介石は三笠宮の怪文書を読んでいたことになります。
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[1344]いやあ、これは面白い
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 ゆう E-MAILWEB  - 05/10/4(火) 21:30 -

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   「若杉参謀」、こんなところでも取り上げられていたのですね。

ところでこれ、「週刊朝日」のどの号でしょうか? 画像からではよくわかりませんでしたので。
41 hits

[1345]失礼、勘違いしていました。
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 熊猫 E-MAIL  - 05/10/5(水) 1:10 -

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【添付ファイル】 〜添付ファイル〜
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表紙は「陽春読物号」となっています。
背表紙は「週刊朝日春季増刊号」とだけしか書かれていません。
裏表紙より判断するしかないですね。
よく観ると昭和二十七年一月二十五日発行(もしかして三月?)と書かれていますね。
45 hits

[1364]御心労の陛下の親書
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 熊猫 E-MAIL  - 05/10/8(土) 20:46 -

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   中国での偕行社がどのようなものであったか?
※私が申しているのではございません。三笠宮様が申しているのです!苦情は天皇家にお願い致します。

 御心労の陛下の親書
 然らば、この一髪千釣の重大な秋にあたり、支那派遣軍の状況はどうか、一二の例をあげて、検討して見よう。
一、日本軍は自分の非行は棚に上げて、無闇ヤタラと重慶側の不当のみを攻撃する傾向がある。例えば頃来、重慶軍が赤筒(ガス弾)を使用したと、その非道を大わらわに宜伝している。果して日本軍はこれまで漢口その他の戦線において、赤筒は使用しなかつたのか。自分は頬被りをして相手だけを暴くのは、あたかも鏡なしで化粧するようなもので、両者の疎隔を助長するには役立つが、双方を接近諒解に導くことは難かしい。余は結婚後二年にして始めて知つたことは、夫が自らの言動を律することなく、たゞ妻のみを責めても駄目だということである。夫たるものは妻に文句をいう前にまず自分に間違いがないかどうかをよく反省して後、妻に対することである。
 蒋介石氏が最近来、日本軍を目して「軍閥だ」と称しているのは、当然だと考えるようになつた。日本軍は軍閥であつてはならない。
一、同じく日本の軍隊でありながら、今日の如く、陸軍と海軍の確執が甚だしいのは遺憾である。陸海軍双方の縄張根性からくる弊害は日とともにその激しさを増しつゝあるが厳に慎まねぼならぬ。
 その時、加藤侍従武官は命を受けて起立し、ある地方における左の如き陸海軍の合作美談を引例説明した。
 この地方では陸海軍の首脳者がよく話合つて、互いに双方の立場を尊重するよう努力している。例えば、陸海軍の呼称においても陸軍側では「海陸軍」と呼称し、海軍側では「陸海軍」と呼称している。往復文書にもこの字句を用い、一事が万事、この精神をもつて誤解なきを期している。
一、余は中国各地の主なる偕行社を見てまわつたが、その墜落は甚だしい。そこには食い物と女と酒が充滞している。その一方、一般居留民の場合はどうか、「戦争遂行のため」という軍命によつて、甚だ厳しい制限が加えられている。かゝることで果して軍は官民の協力を得ることが出来ると思うか。
と幾多の実例を挙げ、厳しい語調で軍自体の失政を批判し、切に自粛を要望した後、さらに語を進めて、中国に現存する政権に言及し、
一、日本が支援しつゝある南京政権は、余の見るところによれば、恐らく将来に大なる期待をかけることは難かしい。日本と重慶間の和平の橋渡しにもなり得ないだろう。
 殊に中共治下の政治と比較するとき、その官吏の食汚において、経済政策において、はたまた民心の把握において、雲泥の差を見出すことが出来る。
とて、調査した中共の統計図表に基づいて詳細な説明を行い、尉官連の注意を喚起した。
最後に結論として、
 陛下は中日事変の早期終結については、殊のほか心を労せられ、余が南京在勤の僅かな期間中においてすら、三回にわたり親書を下さつた程である。(とてポケットから親書を出して一同に示し)要するに、中日事変解決の重責を担う支那派遣軍は、この際如何にあるべきかの問題は、何よりもまず日本人は本来の真の日本人の姿にかえり「過去並びに現在行いつゝある自己の行動に対し、厳格なる反省をなし」悪を捨て善に就き、更に「中国人に対しては謙譲の徳を発揮する」ことこそ最も肝要である。
と結んだ。
56 hits

[1377]箝口令くぐる怪文書
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 熊猫 E-MAIL  - 05/10/9(日) 22:34 -

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   三笠宮様がおかしのか?日本軍がおかしいのか?

  箝口令くぐる怪文書
 殿下につゞいて私ども三名の記録係は退席したが、百二三十名の尉官達はそのまゝ居残りを命ぜられ、某中佐参謀から改めて「本日、若杉参謀の説明には適当を欠く箇所ありと思料せらるゝをもつて、何時、如何なる場所においても本日の教育内容は他言してならぬ」と厳重な箝口令が布かれたのである。殿下は、この日の教育内容を本論一冊、資料附録二冊、計三冊に分類整理され、三十余部タイプ印刷のうえ、総司令部の参謀以上に一部ずつ分与し、昭和十九年一月十三日、南京から飛行機で帰国された。私には別途に一部を特に下さつた。しかるに殿下が帰国せられた直後、参謀以上に下さつたこれら文書は全部一ヵ所に纏められ、焼却処分に遇つてしまつた。
 人間というものはおかしなもので、箝口令が布かれゝば、かえつて話は口から口へと伝り易いものである。焼かれた筈の書類の写しがどこからか出て来たりして、かえつて人の注目を惹く。その後日本で「三笠宮の怪文書」などと世人を騒がしたのは恐らくこの文書をさしたものであろう。今から数えると一昔前のことである。宮様も若かつた。軍閥最も華やかにして、軍の行動に対しては誰一人、秋毫の批判も許されなかつたあの時代に、毅然たる態度をもつて軍の失政を批判し、快刀乱麻を断つ論陣を張つて、軍の反省を促したあの尉官教育こそは、われ/\に深い/\感銘を与えずにはおかなかつた。
 南京城内の中央部に五台山と称する丘陵がある。明治神宮の内外苑を含めたものより、更に広いと思われるくらいの地域である。もと/\中国人の基地などの多い土地であつた。中日事変の末期、この丘陵に日本の神社が建立されることになり、基地などは他に移され、一の鳥居、二の鳥居もある壮大な神社が出来上つた。殿下は出来上つたものに、あえて横槍を入れる気持はないがと前提して、こんな意見を述べられたそうである。
 一、神社を崇敬するのはよい。しかし中国の首都の真中に広大な日本の神社が建立されたとして、果して南京の中国市民がどんなに思うかということを考慮したことがあるか。国父孫文の中山陵でさえ南京郊外のはるか遠い地域に建立されている。
 一、墓地は中国人祖先崇敬の拠点である。墓地の方角は、その家――子孫の繁栄に至大の関係をもつものとして、墓地の選定に当つては必ず「風水先生」を招じて、その方角を決めるのである。したがつて、軽々しく墓地の移転など行わないのが古来の風習である。この点に遺憾はないか。
 一、日本人が外国に来て、精神の統一を図るのに、かくも大きな神社でなければならない理由があるのか。居留民は常に移動するものである。後代の氏子は果してこの尨大なる神社を経営維持して行けるか。
 一、日本軍隊が近き将来に撤退することは、既定の方針であり、すでに汪政権とは条約をもつて約束済である。軍隊なき後の神社を保衛するのは果して誰か。神社に対する不敬事件などは起り得る事柄である。その時また日本軍隊の出動というようなことになりはせぬか。
 今日、北は満州から南は中国および南方諸地域まで各地に建立されたあまたの神社は果して今どうなつたであろう。殿下が南京を去られた後、僅か一年有半にして、五台山に建立された、かの壮大なる神社は、心なきもののため、見る影もなく取り荒され、烏有に帰したのであつた。
52 hits

[1378]白旗かゝげシ江会談
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 熊猫 E-MAIL  - 05/10/9(日) 23:28 -

引用なし
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     白旗かゝげシ江会談
 昭和二十年八月十五日、日本の無条件降伏となり、かくして終戦までに三千八百六十四憶日本円の軍費を使用した支那派遣軍は遂に消滅した。  
 この時私は、はからずも日本国開国以来、かつてなかつた「日本投降軍使随員」を命ぜられ、白旗をかゝげて重慶に程近い「シ江」に使いした。飛行機のなかで、私は「これが本当の意味の中日事変終結であり、新しい中日関係の発足第一歩であるから、シッカリやらなけれぼならない」と幾度かわが心にいゝ聞かせたものである。日本歴史の上から大いなる意義をもつシ江会談について、いま私の手もとにある当時の日記から原文を書き抜いておくことにしよう。

一、列席者
 中国側 中国陸軍総司令部参謀長
         中将  蕭 毅 粛
     同   副参謀長
         中将  冷   欣
     中国陸軍軍令部課長
         上校  王   武
米国側 中日戦区米軍作戦司令部参謀長
准将  バトラー
日本側 支部派遣軍総参謀副長
     少将      今井武夫
     同参謀 中佐  橋島芳雄
     同   少佐  前島国雄
     嘱託 佐官扱  木村辰雄
二、日時 昭和二十年八月二十一日午後四時ヨリ
三、会談要旨
「蕭中将」
本官ハ中国戦区最高統帥、蒋中正閣下ノ命ヲ受ケタル何応欽閣下ヲ代表シ、貴官ヲ接見セル参謀長蕭毅粛中将デアル。
左ハ副参謀長冷欣中将、右側ハ中国戦区米軍作戦司令部参謀長バトラー准将デアル。
日本軍代表タル身分ヲ証明スル証明書ヲ所持セラルヽヤ、提示セラレタイ。
「今井少将」
御要求アリタル証明書ハ所持シアラズ。本官ハ支那派遣軍総司令官岡村寧次閣下ノ命ヲ受ケ、中国戦区最高統帥蒋委員長閣下ノ責任アル代表ト会見スルタメ来着セル総参謀副長今井少将デアル。随員ハ橋島参謀、前島参謀、木村嘱託デアル。本官ノ任務ハ停戦協定ノ締結準備ノタメノ予備交渉ニシテ、従ツテ協定乃至調印等ノ任務ヲ附与セラレアラズ、即チ単ナル連絡ヲ任務トスルモノデアル。更ニ附言スレバ、帝国政府ハ天皇陛下ノ御聖断ニヨリ既ニ「ポツダム」宣言ヲ受諾スルヲ決シ目下「マニラ」ニ於テ連合国最高指揮官ト日本軍代表トノ間ニ停戦協定協議中ニ付、協定成立ニ勝手ナル行動ハ許サレズ、然シナガラ貴国ニ於ケル関係ハ蒋委員長閣下ガ担当セラルベシトノ予想ノ下ニ、之ト迅速ニ連絡スルコトハ礼儀ト心得、貴方ヨリノ呼出ヲ待ツコトナク、自主的ニ当地ニ参ツタモノデアリマス。
「蕭中将」
身分ヲ証明スベキ何モノモ携行セラレアラザルヤ。
「今井少将」
先程申シ上ゲタル如ク、身分証明書ハ携行シオラズ、但シ連絡任務ヲ授ケラレタル、日本軍作戦命令ノ写ヲ持参セルニ付開示シマス。
「蕭中将」
作戦命令ハ身分証明書ニ代リ得ルモノト認定ス、八月十八日附中国戦区最高統帥蒋中正閣下発、岡村寧次将軍宛電令ニ基ヅク、中国台湾及北緯十六度以北安南地区内ニ駐屯スルアラユル日本軍ノ戦闘序列、兵力位置及指揮系統等ノ表冊ヲ携行セタレクルヤ、提示セラレタイ。
「今井少将」
本件ニ関スル公武ノ申出ハ之ヲ受領セルニ付、要図ヲ以テ調製携行セリ、但シ台湾及ビ北緯十六度以北仏印地区内ニアル日本軍ニ関シテハ、支那派遣軍ノ隷下部隊ニアラザルヲ以テ詳カナラズ、知得シアル限リノ概要ヲ附記セリ。所要ノ事項ハ橋島参謀ヲシテ説明セシメマス。
「蕭中将」
本要図ハ暫時当方ニ於テ保管シ、細部ニ関シテハ迫而連絡スルコトヽスル。他ニ準備セラレタル書類アリヤ。
「今井少将」
他ニ書類ハ携行セザルモ、南京、上海地区ノ飛行場ノ状態ヲ説明セシムルタメ、前島航空参謀ヲ随行シマシタ。
「蕭中将」
後刻説明ヲ求メルコトヽスル。
今ヨリ中華民国三十四年八月二十一日附駐華日軍最高指揮官岡村寧次将軍宛ノ中国戦区中国陸軍総司令部備忘録中字第一号ヲ手交スル。
(本文は日本軍ノ無条件降服ニ関スル詳細ヲ規定セルモノナリ。華、日、米ノ各国語ニテ朗読)
今井少将ハ本備忘録ヲ受領セバ、受領証ニ署名捺印シ、責任ヲ以テ岡村寧次将軍ニ手交セラレタイ。
(受領証ヲ華、日、米各国語ニテ朗読ス)
「今井少将」
先程申シ述ベタル如ク、本官ノ任務ハ達絡ニアルヲ以テ、本備忘録ヲ単ニ岡村総司令官閣下ニ届ケルコトハ差支ナキモ、内容ノ諸否ハ回答シ得ザルモノト諒解セラレタイ。
(書類ヲ手交セラル)
「今井少将」
本書類ニハ実行シ得ザルモノアルヲ以テ、質問ノ上意見ヲ述べタイ。
「蕭中将」
質問ハ後刻ノ連絡ニ譲ルコトヽセラレタイ。
「今井少将」
後刻改メテ協議ノ予定トアラバ、其ノ折ニ譲リテ意見ヲ述ベルコトニシマス。
「蕭中将」
岡村総司令官ガ投降手続ヲ完了スル迄ノ期間、冷欣中将ヲ南京ニ派遣シ、前進指揮所ヲ設置セシム、冷欣中将ノ一行ハ貴官ト同行セシメル予定デアル。
何応欽総司令閣下ハ投降手続完了以前、最短期間内ニ於テ南京、上梅、北京ニ軍隊ヲ空輸ス、右軍隊進駐前ニ先ズ米国空軍地区勤務諸部隊ノ進駐ヲ実施ス、岡村寧次将軍ハ右ニ伴ウ所要ノ準備ヲ手配セラレタイ。
尚相互ノ連絡ヲ確保セルタメ、今井総参謀副長ハ南京ニ帰還後直チニ本諸元(諸元表ヲ手交ス)ニ依リ、無線連絡ヲ開始セラレタイ。
「橋島中佐」
シ江電台を通ジ、今夜ヨリ南京ニ対シ無線連絡ヲ実施シ得ル如ク通信法ヲ準備シ来リタルヲ以テ、差当リ右表ヲ利用シテ頂キタイ。(右表ヲ手交ス)
「蕭中将」
後刻貴官等ノ宿舎ニ何応欽総司令閣下ノ許可セル中国陸空軍並ニ米国軍将校ヲ派遣シ細部ノ連絡ヲナサシメル。
右細部連絡終了セバ、貴官等ハナルベク速カニ南京ニ帰還セラレタイ、ソノ出発日時ニ関シテハ改メテ当方ヨリ通知スル。

   記録は蒋統帥の手に
 会談は約一時間で終了した。投降軍使を接見した中国側将領の態度には、敗戦の将をいたわる気持があふれ、かつて絵画等で見たシンガポールで英軍の投降軍使を接見している山下大将のような態度は微塵も見受けられなかつた。一行はシ江の宿舎に三泊し、日本軍投降に関する種々の打合せを行つたのであるが今井軍使以下各随員の苦心はなみ/\ならぬものがあつた。偶然の機会にシ江で見かけた重慶発行の大公報紙上に「日本天皇は中日事変の最大責任者であるから、重きに従つて処断することに参政会は決定した」との記事が大々的に報道されていたので、私は大変なことになつたと思つた。その時フト一年半前に若杉参謀が私に下さつた「尉官教育の記録」をまだ所持していたことを思い出し、南京帰還後、私は独断でその書類を中国陸軍総司令部宮其光少将経由、蒋介石最高統帥のもとまで出した。
 ほどへて、宮其光少将から、ねんどろな返事が伝えられた。「蒋最高統帥は記録を読まれて、非常な喜びの情を示された」という言葉であつた。          (完)
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