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[530]長崎原爆:米記者のルポ原稿、60年ぶり発見 ピッポ 05/6/21(火) 23:15
[531]Re(1):長崎原爆:米記者のルポ原稿、60年ぶり発見 ピッポ 05/6/21(火) 23:18
[532]Re(2):長崎原爆:米記者のルポ原稿、60年ぶり発見 ピッポ 05/6/21(火) 23:19
[533]Re(3):長崎原爆:米記者のルポ原稿、60年ぶり発見 ピッポ 05/6/21(火) 23:20
[534]Re(4):長崎原爆:米記者のルポ原稿、60年ぶり発見 ピッポ 05/6/21(火) 23:26

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 ピッポ E-MAILWEB  - 05/6/21(火) 23:15 -

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   長崎原爆:
米記者のルポ原稿、60年ぶり発見 検閲で没収
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20050617k0000m040159000c.html

取材中のジョージ・ウェラー記者(撮影日時と場所は不明)
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/images/20050617k0000e030031000p_size5.jpg


 【ロサンゼルス國枝すみれ】長崎市に原爆が投下された1945年8月9日の翌月、同市に外国人記者として初めて入り取材した米シカゴ・デーリー・ニューズ紙(廃刊)の故ジョージ・ウェラー記者の未公表の原稿と写真が60年ぶりに見つかった。原稿は、長崎市の惨状と原爆症に苦しむ市民の様子を克明に記している。ウェラー記者は原稿を連合国軍総司令部(GHQ)検閲担当部局へ送ったが、新聞に掲載されることはなかった。当時、米政府は原爆の放射線による健康被害を過小評価する姿勢を見せていた。この原稿が公表されていれば米世論に影響を及ぼし、核開発競争への警鐘となった可能性もある。

 原稿は昨年夏、ウェラー記者が晩年を過ごしたローマ近郊のアパートで、息子の作家、アンソニー・ウェラーさん(米マサチューセッツ州在住)が発見した。タイプを打った際にカーボン紙で複写したもので茶色に変色しており、A4判で計約75枚、約2万5000語。長崎市内を撮った写真25枚は、記者(國枝)の取材を受ける準備のため、アンソニーさんが、5月11日にトランクを整理していて偶然発見した。

 ウェラー記者は45年9月6日、鹿児島県からモーターボートや鉄道を使って長崎市内に入り、同市を拠点に約2週間にわたり被爆地や九州北部を取材した。

 原稿は、長崎入りした9月6日付から始まる。8日付の原稿では、被爆者が受けた放射線による障害などの重大性に気づいた様子はなく「せん光が広がり強力な破壊力を持っていることを除いて、原爆がほかの爆弾と違うという証拠は見つからない」と書いている。

 しかし同日、ウェラー記者は二つの病院を訪ね、原爆の特異性に気付く。軽いやけどなのに腕や足に赤い斑点が出て苦しんでいる女性、鼻に血が詰まったり、髪の毛が抜けている子どもたちがいた。オランダ人軍医は、患者の症状を「疾病X(エックス)」と呼んだ。

 9日には、福岡から長崎に駆けつけた中島良貞医師を取材し、「疾病X」が放射線被ばくによる原爆症を意味し、投下から時間が経過しても死者が出ている原因と確信する。「患者たちは、エックス線照射によるやけどの患者と違って、あまり苦しまない。そして、彼らは4〜5日後に悪化し、亡くなる。死後に調べると臓器も正常だ。しかし、彼らは死ぬのだ」

 息子のアンソニーさんによると、ウェラー記者は一連の原稿をGHQに送ったが、掲載は許されなかった。原稿は返還されず、複写については、ウェラー記者自身、紛失したと思っていたらしい。当時、広島に入った記者による放射能汚染を告発した記事が英紙「デーリー・エクスプレス」(45年9月5日付)に掲載され、米政府はその打ち消しに躍起になっていた。

 アンソニーさんは「原稿が公表されていたら、放射能の危険性を警告した画期的な記事になっていたはず」と話している。

 【略歴】ジョージ・ウェラー記者 米国ボストン出身、苦学してハーバード大を卒業した。30歳でニューヨーク・タイムズの契約記者としてバルカン半島を取材した後、シカゴ・デーリー・ニューズ特派員として太平洋戦争を取材した。日本軍の攻撃を受けている潜水艦の中で、盲腸の手術を施した米兵士の記事で、1943年、ピュリツァー賞を受賞。その後アジア、アフリカ、中東、ロシアなど世界中で紛争を取材。02年12月、95歳で死亡した。

 ◆核の恐怖「圧殺」 検閲の罪、今に問う=解説

 外国人記者として最初に被爆地・長崎に入ったウェラー記者の原稿は、原爆の放射線による健康被害の実態を明らかにするものだ。内容的には、英紙「デーリー・エクスプレス」に掲載されたウィルフレッド・バーチェット記者の広島リポート(1945年9月5日)を、さらに詳しくしたものといえる。

 バーチェット記者はGHQの検閲当局を通さずに原稿を英国に送った。一方、ウェラー記者は同局に原稿を提出したため、それが世界に打電されることはなかった。米政府は「多数の民間人の被ばく死」というのは日本側のプロパガンダだとして、米国内の世論を操作。原爆の惨劇が米国人に広く認識されるには46年8月、ジョン・ハーシー氏の「ヒロシマ」が米誌ニューヨーカーに掲載されるまで待たねばならなかった。

 核兵器の研究を進める米政府は、国民が放射能に恐怖心を持つことを避けたかった。放射能による健康被害を認め、広島や長崎にいた米捕虜、被爆地に派遣された米兵などへの補償法ができたのは85年だった。

 ウェラー記者の原稿が掲載されていれば、米国内で原爆使用を非難する世論が高まり、政府の核兵器開発に対するブレーキになった可能性もある。その意味で「幻の原稿」は、ジャーナリズムを圧殺した検閲の罪を問うている。湾岸戦争やイラク戦争はどうだったのか。変色した原稿は今を生きる者に問いかけている。【國枝すみれ】

記事の英訳はこちら
http://mdn.mainichi.co.jp/news/20050617p2a00m0dm001001c.html

ウェラー記者の原稿原文はこちら
http://mdn.mainichi.co.jp/specials/0506/0617weller.html

毎日新聞 2005年6月17日 3時00分
19 hits

[531]Re(1):長崎原爆:米記者のルポ...
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 ピッポ E-MAILWEB  - 05/6/21(火) 23:18 -

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   長崎原爆ルポ:
ジョージ・ウェラー記者原稿全文 その1
 ジョージ・ウェラー記者原稿(1)

 【9月8日長崎】原子爆弾は無差別に使用可能な兵器として分類されるかもしれないが、長崎への投下は選別された妥当なもので、これほどの巨大な威力が予想されていたにしては十分慈悲深いものだった。

 次に述べることは、廃墟を取材するために初めて訪れた記者の結論であり、詳細に調べたものだが、この戦争による荒地の検証はまだ不完全だ。

 長崎はその大きさと形から大雑把に言ってマンハッタンと似ており、南北に入り江がある。

 ニュージャージーとマンハッタン側に相当する場所には、三菱と川南家が所有する巨大な軍需工場が立ち並んでいる。

 従業員約2万人がいた川南造船所は、バッテリー・パークとエリス島に相当する港の入口の両側に建っている。ここは爆発の現場から約5マイル(約8キロ)の地点。原爆投下前に襲撃したB−29は造船所破壊に失敗し、ほとんど無傷のままだ。

 ハドソン川のように両岸に埠頭のある長崎港を上って行くと、奥に向かうにつれ両岸の幅が狭くなっていく。川の両岸に長く立ち並ぶ工場はすべて三菱のもので、その工場の向こうには、手に取るような近さに美しい緑の丘がある。

 川南の工場から2マイル(3・2キロ)離れたジャージー側に当たる左側には、三菱の造船所とモーター工場があり、それぞれ2万人と8000人を雇用している。この造船所は原爆投下前の空襲で損害を受けたが、被害は大きくはない。モーター工場は被害を受けていない。ここは原爆の爆心地から3マイル(4・8キロ)で、修復可能だ。

 港が250フィート(76メートル)の幅に狭まるのは、高さ1500フィート(457メートル)だった原爆爆発地点から2マイル(3・2キロ)にある浦上川で、原爆の威力の跡をこの付近から確認することができる。この地区は長崎の中心街の北に位置し、建物はところどころ破壊されているが、ほぼ正常な状態だ。

 鉄道はプラットフォームを除いて破壊されているが、既に営業をしている。普段は破壊された浦上谷への玄関口と言えるところだ。南北に平行して、両岸に三菱の工場がある浦上川が流れ、町から鉄道と幹線道路が走る。線路沿いには住宅地と鉄やコンクリートの工場が密集し2マイル(3・2キロ)にわたって広がっている。その中に落下した原爆は両側を完全に破壊し、住民の半数を直撃した。判明している死者数は2万人で、日本の警察は推定約4000人が行方不明と語った。

 日本の役人の見積もりによると、負傷者数は死者数の約2倍になるとみられるが、死者数がこれほど多い理由には二つの要素がある。一つは三菱の空襲シェルター(防空壕)がまったく機能せず、一般市民のシェルターも遠く離れて限られていたこと。二番目は、日本の空襲警戒警報システムがまったく機能しなかったことだ。

 私は三菱社がシェルターにしていた谷の岩壁にある短くて粗雑な6つのトンネルを調べた。また、私は込み入った鉄の桁とカールした屋根のメーン工場を通り抜けて、厚さ4インチのコンクリートのシェルターを見たが、数の上ではまったく不十分だった。事務職員が働いていたサイレンが上に備え付けられた灰色のコンクリート製の建物にだけ、強固な地下シェルターがあったが、PREVIO(建築資材か)のようなものは皆無だった。

 2機のB29が現れる4時間前の朝7時、通常の空襲警報が鳴ったが、従業員やほとんどの住民は無視した。警察は原爆投下2分前にも警報が鳴ったと主張しているが、ほとんどの人は何も聞かなかったと言っている。

 誇張された話を排除し、証言を検証していくと、原爆はすさまじいものであるという印象が増して行く。しかし、特別な兵器ではない。日本人は米国のラジオから、地面には極めて有害な放射能が残っているという説明を聞いている。ただ、肉の腐敗臭がいまだに強烈な廃墟の只中を数時間歩くと、記者も吐き気をもよおすが、やけどや衰弱の兆候はない。

 この爆弾が、これまでよりせん光が広がり強力な破壊力を持っていることを除いて、ここ長崎では誰もまだ、この爆弾が他のどの爆弾とも異なるという証拠は見つからない。

 三菱の工場の周辺には危害を与えたくなかっただろうが、一帯は廃墟となっている。記者は、長崎医療研究所病院にあるひと気のない15の建物で1時間近くを費やした。がれきでいっぱいのホールにはネズミ以外は何もいない。谷と浦上川の反対側には、「Chin Jei」と呼ばれるコンクリート製3階建てのアメリカン・ミッション・カレッジがあるが、ほとんど破壊されている。

 日本の複数の当局者は、米国の爆弾によって焼け野原となった地域は、伝統的にキリスト教カトリック信者の日本人が住んでいたと指摘した。

 しかし、こうした地域や、装甲板製造工場の隣に日本人が設置した連合軍捕虜収容所に被害を与えないことは、1016人の労働者の大部分が連合軍捕虜だった三菱の船体部品工場、また、隣接する1750人の従業員がいた砲架工場にも被害を与えないことになっただろう。浦上川の両岸にあり通常3400人が雇用され、あの日は2500人がいた3つの鉄の鋳物工場にも被害を与えないことになっただろう。さらに今は焼け野原となっている多くの下請け工場に被害を与えないことは、原爆が炸裂した場所にもっとも近く、7500人を雇用していた三菱の魚雷と弾薬の工場を手付かずに残すことを意味したであろう。

 これらすべての工場は今日、叩き潰されている。しかし、死の兵器工場の中に工作員が忍び込んだとしても、手で原爆を綿密に仕掛けることはできなかっただろう。

原文はこちら
http://mdn.mainichi.co.jp/specials/0506/0617weller.html

毎日新聞 2005年6月17日 3時00分
22 hits

[532]Re(2):長崎原爆:米記者のルポ...
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 ピッポ E-MAILWEB  - 05/6/21(火) 23:19 -

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   長崎原爆ルポ:
ジョージ・ウェラー記者原稿全文 その2
 ジョージ・ウェラー記者原稿(2)

 【9月8日長崎】三菱の兵器工場の骨組みが曲がったりぺしゃんこになっている様子は、鉄や石に対しての原爆の威力がどのようなものだったかを示している。だが、長崎郊外の二つの病院では、炸裂した原子が人間の肉体や骨に対してどのような力を持っているかは、明らかにならないままだった。爆心地から3マイル(4・8キロ)離れた、攻撃された米領事館の正面壁や、爆心地から別方向に1マイル離れたカトリック教会の壁を見てもしょうが入り菓子パンのように崩壊していた。飛び散った原子はすべてを突き抜ける勢いだった。

 運良く被害から逃れた人々は、壊れず残った長崎で最大級の2病院で小さな家族部屋に座っていた。彼らの肩や腕、顔は包帯に包まれていた。

 降服後、初めて長崎に入った米国人外部者の私に、プロパガンダを意識した案内役の役人は明らかに意味ありげに顔をのぞき込み「どう思うか」を知りたがった。この問いかけが意味するのはこうだ。「あなたは米国人が日本にこの兵器を放つことによって行った非人間的な行為を伝えるつもりがあるのか。それが私たちの書いてもらいたいことなのだ」−−と。

 やけどを負っていたり、やけどを負ってはいないが髪の毛の一部がはがれ落ちた何人かの子供たちが、母と座っていた。前日には日本人写真家が彼らの写真をたくさん撮っていった。およそ5人に1人は体中に包帯を巻いていたが、だれも痛そうには見えなかった。

 何人かの大人たちは痛みの中、布団に横たわり、低いうめき声を上げていた。ある女性は夫の世話をしながら、目を涙で曇らせていた。あわれな光景だったため、同行の役人は、そこから立ち去るべきかどうか見極めようと、私が同情を禁じえないかどうか表情を密かに探った。

 多くの担架を訪ね、2人の一般医と1人の放射線専門家と長時間の話をし、多くの情報と被害者たちの意見を得た。統計というにはまばらで、記録もほとんどないが、この主要な市営病院に今週までに原爆患者が約750人いたが、約360人が死亡したということは確かだ。

 死亡原因の約7割は通常のやけどだった。日本人たちが言うには、爆心地から0・5〜1マイル(0・8〜1・6キロ)以内で外にいた誰もがやけどで死亡した。だが、これは事実ではないと思われる。工場にいた連合国の捕虜のほとんどはやけどを負わずに逃げ出しており、わずか約4分の1がやけどを負ったに過ぎないからだ。いずれにしても明白なのは、8月9日の午前11時2分に、多くは思いがけない火にとらわれ、その火は半時間燃え続けたということだ。

 だが、重いやけどを負った患者が死亡した今、軽症患者のほとんどは急速に治癒している。不幸なくじを引いたがために治っていない人々には、原爆の威力の不思議なオーラが現れている。彼らは、現在は長崎港の入り口にある第14収容所の連合国司令官であるオランダ人軍医のヤコブ・ビンク大尉が「疾病」と呼ぶものの犠牲になっているのだ。ヴィンク氏自身は、三菱工場の装甲板部門に隣接する連合軍捕虜の食堂にいて天井が崩れ落ちたものの、多くの連合国側捕虜や日本人市民が患った、この不思議な「疾病X(エックス)」からは免れていた。

 ビンク氏は病院で黄色い布団の上にいる女性を示した。女性は、病院の医師であるコガ・ヒコデロウ氏とハヤシダ・ウラジ氏によると、まだ運び込まれたばかりだという。被爆地帯から命からがら逃げたが生活のため舞い戻っていた。小さなかかとのやけど以外は、ここ3週間は何ともなかったが、今は破傷風患者のように黒い唇を閉ざしたままうめき、明確な言葉を話すことはできない状態だった。彼女の足や腕には小さな赤い斑点が所々にあった。

 彼女のそばにいる15歳の少し太った女児にも同じできものがあり、できものは赤く小さく先端は血で固まっていた。さらに少し先には、1〜8歳の子4人と一緒に横たわっている寡婦がおり、下の2人の子は部分的に髪の毛がなくなっていた。彼らは誰もやけどは負っていなかったし、骨折もしていなかったが、原爆の犠牲者と思われた。

 ハヤシダ博士はものうげに頭を振り、三菱工場の周りの土地が汚染されているという米国のラジオ報道のような、何かがあるに違いないと語った。だが、続く言葉は、その考えの支えを奪い去るものだった。寡婦の家族は爆発以降、破壊された地域にはいなかったし、同じ症状は、その地域に戻った人々にも同様にみられたからだ。

 日本人医師たちによると、後になって症状が現れた患者らは爆発から1カ月たった今も、1日約10人の割合で死亡しているという。この3人の医師たちは、この疾病にはとまどうばかりで、休息させる以外に何の治療も与えていないと静かに話した。米国からのラジオのうわさは、この症状に対する同様な考えを嗅ぎ取ったものだった。患者たちは、治療のためにできものをなめてもらっていたが、それほど心配している様子はなかった。

原文はこちら
http://mdn.mainichi.co.jp/specials/0506/0617weller.html

毎日新聞 2005年6月17日 3時00分
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[533]Re(3):長崎原爆:米記者のルポ...
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 ピッポ E-MAILWEB  - 05/6/21(火) 23:20 -

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   長崎原爆ルポ:
ジョージ・ウェラー記者原稿全文 その3
 ジョージ・ウェラー記者原稿(3)

 【9月8日長崎】モザイク状に分解された歴史の断片が、解放された連合軍兵士たちによって明らかにされている。彼らは解放後も日本の最南端の島、九州の収容所に残され、救済されないままでいる。ウォルター・クルーガー将軍の陸軍部隊の到着を待っている間、収容兵士たちは厳しく支配してきた日本軍将校から、卑屈な敬礼を受けている。他の地区の収容者と情報交換する中で、この戦争中に何があったのかがヤミの中から浮かび上がってきた。

 原爆が投下されるまで三菱軍需工場の中にあった第14収容所は、長崎港の西側入り口へと移った。ここでは機関士のエドワード・マシュー、エベレット・ワシントンや、アメリカの駆逐艦「ポープ」に会うことができる。どのようにしてポープが巡洋艦「ヒューストン」を率い、8隻の巡洋艦と無数の駆逐艦を擁する日本軍相手にスンダ海峡の戦いに臨んだか…。

 「我々は朝7時に初めて日本軍を認識し、敵は午前8時半に攻撃を開始した。我々は午後2時まで持ちこたえたが、日本の偵察機が船尾付近に爆弾を落とし、我々の船が沈んでいくのを観察、日本の駆逐艦も見ていた。快晴の日だった。日本軍は我々兵士が海中にいるのを3日間放置した。24人乗りの救助艇と救命いかだに154人がしがみついていた。彼らが我々をすくい上げ、マカッサルに連れて行かれた時には、我々は気が狂いそうになっていた」。

 北九州・門司港近くの戸畑にある第3収容所からは3人の収容者が来ていた。彼らは3年間の耐え難い監禁生活後に開かれた道の誘惑に駆られ、原爆投下の結果を見るため長崎にやって来た。

 メリーランド州ノースイースト出身のチャールズ・コリンズは「巡洋艦ヒューストンはスンダ海峡の東側、あるいはジャワ側でつかまった。バンタン湾の近くだった。348人が救助されたが、全員散り散りとなった」という。

 シカゴ生まれのイリノイ州プレーン出身、マイルズ・マーンケは健康そうに見えたが、本来の体重215パウンドから160パウンドまで落としていた。「俺はバターンの死の行進にいた。それがどういうことか分かるだろう」と話した。

 潜水艦射撃手のアルバート・ルップは、フィラデルフィアのベルモント・アベニュー920番に住んでいる。「我々はペナンから450マイル離れたところで2隻の日本の貨物船を追跡していた。偵察機が爆弾を投下して、操舵室に当たった。我々は海底にいたが、もう一回爆弾を落とされて浮上した。最終的に潜水艦を沈めるしかなかった。42人の乗員のうち39人は助かった」という。もう一人、潜水艦にいたのは、ウィリアム・カニングハムだ。ニューヨークはブロンクスのウェブスター・アベニュー4225番に住んでいる。彼はルップと一緒に日本南部の旅行を始めた。

 日本の将校や警備兵が姿を消してしまった収容所から放浪してきた別の4人組は、オハイオ州ジュネーブのアルバート・ジョンソン▽カンザス州バンブーレンのハーシェル・ラングストン▽テキサス州ミュールシューのモーリス・ケロッグ。全員がオイルタンカー「コネチカット」の乗員で、テキサス州ワグザハチー出身のウォルター・アランと一緒に日本を旅している。アランは北京の中国北部警備隊から来たのんきな海軍人だ。

 オイルタンカー乗員の3人は彼らを捕虜にしたドイツ軍部隊長の言葉が気に入っていた。隊長は「前回の戦争で君たちアメリカ人はドイツ人を日本に閉じこめた。今回は我々ドイツ人がアメリカ人を日本に連れて行く。そうすれば君たちにも同じ薬の味が分かるだろう」と言ったのだった。

 九州には約1万人の囚人がいる。日本全体にいるうちの約3分の1だ。日本人らしい全く無秩序なやり方で囚人たちはごっちゃにされ、記録もなかった。

 長崎湾の入り江そばにある第2収容所には、英国の巡洋艦「エクセター」の生き残り68人がいた。エクセターは日本の艦隊を排除するためジャワ海で闘い、沈没した。8インチ砲が喫水線を貫通したのだ。その時の戦闘でやはりスンダ海峡近くで沈没した英国の駆逐艦「ストロングホールド」の生き残り計9人のうち5人もいた。また、沈没した駆逐艦「エンカウンター」の乗員100人のうち14人の英国兵と、ほとんどがジャワやシンガポールから来た英国空軍62人もいた。

 1942年2月27日の夜11時、324のオランダの巡洋艦のうち、「ジャワ」と「デ・ルイター」が沈没した。駆逐艦や潜水艦によってではなく、日本軍が自慢していた巡洋艦からの魚雷攻撃の攻撃に遭ったのだ。

 ジャワ海の戦闘で、やはり夜間の魚雷攻撃にあった駆逐艦「クールトネール」のオランダ人将校もいた。

 頑強なテキサス州フレデリックスバーク出身のレイモンド・ウェスト伍長は、ジャワが陥落する前のスラバヤ郊外で、第131野戦砲兵隊がどのように日本軍に6時間にわたって75インチ砲を浴びせ続けたかを話した。死者は700人に上った。

 記者の部隊についての熱心な問いに、ウェスト伍長は、450人の隊員がジャワ西部に連行され、その後この極東の地で散り散りとなった。彼らは長崎に送られ、ほとんどが第9収容所に移されたと話した。

原文はこちら
http://mdn.mainichi.co.jp/specials/0506/0617weller.html

毎日新聞 2005年6月17日 3時00分
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[534]Re(4):長崎原爆:米記者のルポ...
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 ピッポ E-MAILWEB  - 05/6/21(火) 23:26 -

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   長崎原爆:
未知の症状、闘う医師 60年前の凄惨今に

「ずっとふたをしていた記憶がよみがえりました」。被爆地・長崎に潜入したジョージ・ウェラー記者のルポに、文中に登場する医師の遺族らは当時の長崎に思いをはせた。地獄絵図の中で未知の放射線障害と闘う患者や医師と、それを世界に伝えようとした魂。被爆から60年の歳月が流れ、筆者だけでなく、取材を受けた医師たちも鬼籍に入った。しかし、核被害のすさまじさを伝えるメッセージは、時代と国家を超えて届いた。【大平誠、立石信夫】

 「ウラジ・ハヤシダ」と紹介される林田浦治医師は、爆心地から約3キロ南東の長崎市新大工町の自宅兼医院で開業していた内科医。被爆後すぐ、同市興善町の新興善小学校の救護所に駆り出された。

 長女の明子さん(76)は、防災服に救急袋を背負って救護所に通う父を覚えている。「薬もなく、患者さんの傷口にわくウジをピンセットで一つ一つ取る。そんなことしかできないのが『かわいそうだ』って」。テニスで日本一にもなったスポーツマンで、優しく、ぐち一つ言わない父。廃虚と化した医院に帰宅すると、医療用アルコールにカラメルを垂らした手製の酒を湯で割り、1杯だけあおるのが常だった。

 二女の泰子さん(74)は当時、県立女学校の3年生。姉とともに爆心地近くの三菱兵器工場に学徒動員され、魚雷を造っていたが、2人ともたまたま8月9日は工場を休んで家にいて、無事だった。近くの伊良林小学校は遺体の焼き場となっており異臭が絶えなかった。

 ルポの訳文を見て当時を思い出した泰子さんは「お父さんを亡くした友だちが『母と3日間かけて遺体を焼いた。内臓がぐちゅぐちゅして、なかなか焼けんとさね』って言うんです。14歳の少女がですよ」と涙ぐんだ。

 ウェラー記者が「第2救急病院で会った」とする軍医の佐々木義孝中佐は、軍が終戦当日に長崎経済専門学校(現長崎大経済学部)に開設した救護所「仮編成第216兵站(へいたん)病院」の院長。福岡陸軍病院から派遣され、詳細な状況報告を残した。

 同救護所の看護師だった高原二三さん(84)は「包帯で顔がぐるぐる巻きの男性に、おにぎりをお湯で溶いてあげた。『おいしい』と泣きながら口を動かしていたその人が、翌日に亡くなっていた」。死体を大八車に乗せて焼き場に運ぶ毎日を思い出し、声を詰まらせた。2カ月にわたる救護所での日々は凄惨(せいさん)を極め、別の軍医も「医者として施しようのない姿を見るのはつらい」と嘆いたという。

 ルポで放射線治療の専門家とされているのは、九州大医学部放射線科学教室の初代教授で、当時、九大付属病院長だった中島良貞医師。同教室の学生で、被爆2日後に九大救護班として現地入りした門田弘医師(81)は「中島先生は出発前から『原子爆弾だから、手の施しようがないよ』と言っていた」と原爆の怖さを当初から冷静に分析していた恩師を振り返る。

 中島医師は71年に84歳で亡くなった。二男の雅良さん(85)は「当時のことは話さなかった。でも放射線のことは『これ以上浴びたら危ない』と非常に怖がっていました」と話す。

 林田医師は、70年に73歳で胃がんで亡くなった。妻と医師を継いだ息子2人も亡くなり、残ったのは姉妹だけだ。救護所だった新興善小も、昨年取り壊された。「(ウェラー記者は)つぶさにご覧になったから、伝えようとされたんでしょうね。こんなに惨めでひどいもんだったとは、向こうでは誰も知らなかったでしょうから。長崎と広島が頑張らなくちゃね」。ともに7人の孫を持つ2人は、ウェラー記者のルポを手に、つぶやいた。

 ◆軍医の「状況報告」と整合

 佐々木義孝・軍医中佐はウェラー記者が長崎入りする直前の45年9月4日付で「状況報告」をまとめていた。次々と亡くなる被爆者の臨床病理所見が記され、未知の放射線障害についても詳細な記述がある。ルポと整合する部分も多い。抜粋、要約は以下の通り。

 ・9月2日までの収容人員395人中、161人が死亡。医官の熱誠なる診療にもかかわらず極めて死亡率高く、現在入院中の148人もその過半は逐次不幸なる転帰をとるものと予期する。

 ・入院、外来患者の70%内外はガラスや木片などによる一般外傷だが、高度な化膿(かのう)でない多数例が、受傷1、2週間後に原爆の輻射(ふくしゃ)線(放射線)によると思われる全身的影響が発現し、急速に死に至る。

 ・熱傷は収容患者の63%に認められる。当初は比較的良好に治癒するが、受傷2週間後に至ると患者の多数(28%)は、全身症状が漸次悪化し体温40度内外に上昇、呼吸困難を伴い、3〜5日後に心臓衰弱により死亡する。熱傷以外に原爆の特殊輻射線による臓器の障害、変性等によるものと思われる。

 ・脱毛は、被爆1〜2週間後に大多数に発生。原因も分からず高熱を発生する者も少なくなく、その場合100%死に至っている。

 ・原爆の特殊作用と認められる諸症状には熱傷、下痢、脱毛、貧血などがあるが、いずれの症例も死の直前には必ず高熱が続く。これに関してはいまだ全く知見を持たないが、混合感染や敗血症性ではないと思われる。

毎日新聞 2005年6月17日 3時00分


長崎原爆:米記者のルポ原稿、60年ぶり発見 検閲で没収
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20050617k0000m040159000c.html
長崎原爆ルポ:ジョージ・ウェラー記者原稿全文 その1
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20050617k0000m040167000c.html
長崎原爆ルポ:ジョージ・ウェラー記者原稿全文 その2
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20050617k0000m040168000c.html
長崎原爆ルポ:ジョージ・ウェラー記者原稿全文 その3
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20050617k0000m040169000c.html
長崎原爆:未知の症状、闘う医師 60年前の凄惨今に
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20050617k0000m040161000c.html
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