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教科書採択夏の陣も最終戦を迎えています。 つくる会教科書採択を、『日本版文化大革命』と位置付けたウヨクは、 今、何を強調しているのでしょうか?
統一した作戦があるのかないのか分かりませんが、 下記のばあいは、 「韓国の内政干渉」 「他社教科書は韓国の息がかかった反日」 「つくる会教科書こそわが国自前の教科書」 というのが宣伝ポイントのような気がします。
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Japan On the Globe(405)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■
Common Sense:
歴史教科書読み比べ
韓国に関する記述を読み比べると、 歴史教科書の違いが見えてくる。 ■■■■
H17.07.31
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■1.韓国からの異常な干渉■
4年に一度の中学校の教科書採択作業が進んでいるが、扶桑 社の歴史・公民教科書の採択阻止に向けて、今回は韓国からの 干渉が目立つ。
松山市には6月30日、韓国の友好都市・平澤(ピヨンテク) 市から市民訪問団十人が訪れた。松山市と市教委、愛媛県、県 教委に扶桑社版教科書の不採択を求める要請書を渡す手はずだっ た。しかし、県教委は「採択に関する面会には応じられない」 と拒否。この訪問は、特定県議や県内の政治活動家らが訪韓し て要請したものだった。[1]
栃木県大田原市が扶桑社の採択を決めると、韓国外交通商部 ・李揆亨スポークスマンは「韓国政府は、わい曲された歴史教 科書の採択が、日本の育つ世代に過去歴史に対する誤った認識 を与え、不幸な歴史を繰り返しうるとの点について、非常に深 刻に憂慮している」と発表した。[2]
友好都市関係を利用して、他国の教科書採択に影響を与えよ うと活動するのは、「友好」の悪用である。また外国政府が公 式にこのような発表をすることは、異様な内政干渉としか言い ようがない。
なぜ韓国側は扶桑社教科書に異常な敵意をぶつけてくるのか。 各教科書の韓国に関連する部分を読み比べてみれば、その理由 が見えてくる。[3]
■2.どのような人物を紹介しているか■
学習指導要領には「国家・社会及び文化の発展や人々の生活 の生活の向上に尽くした歴史上の人物と現在に伝わる文化遺産 を、その時代や地域との関係において理解させ、尊重する態度 を育てる」とある。
まず近世近代で国民によく知られた著名な人物を紹介してい る教科書を挙げると(単に名前を挙げるだけで人物紹介になっ ていない教科書を除く):
二宮尊徳: 扶桑のみ 明治天皇: 扶桑のみ[a] 東郷平八郎: 扶桑のみ[b] 渋沢栄一: 扶桑のみ[c] 昭和天皇: 扶桑のみ[d]
次に、他の教科書では一般国民があまり聞いたこともないよ うな朝鮮人が紹介されている例が目立つ。(東書:東京書籍、 大書:大阪書籍、教出:教育出版、日書:日本書籍新社、日文 :日本文教出版)
李舜臣(秀吉の朝鮮出兵の際の朝鮮の将軍):東書、日文 閔妃(日本の浪人に殺害された朝鮮王妃):日書 安重根(伊藤博文を暗殺した朝鮮人): 帝国、日文 柳寛順(三・一独立運動で逮捕され、獄死した少女): 帝国、日文 日本文教出版の教科書で学んだ中学生は、二宮尊徳、明治天 皇、東郷平八郎、渋沢栄一、昭和天皇は知らないが、李舜臣、 安重根、柳寛順は知っているということになる。 ■3.「帰化人」か「渡来人」か■
古代日本における帰化人の果たした重要な役割は否定できな い。ただ、扶桑社だけが「帰化人(渡来人)」と呼び、他の7 社の教科書はすべて「渡来人」と呼んでいる。
「渡来人」とは物理的な移動を指すのみだが、「帰化人」はそ の国の法的・政治的秩序に従い、その共同体の一部となった人 びとを指す。朝鮮から古代日本にやってきた人々は、独立王国 を築いたわけではなく、日本という共同体の一員として同化し ていった「帰化人」である。
これをことさら「渡来人」とするのは、現在の一部の在日韓 国人、朝鮮人が帰化を拒否する心情に阿っているかのようだ。
■4.聖徳太子の対隋対等外交の意義■
聖徳太子の対隋対等外交をきっかけに、日本は中国の冊封体 制(中国の皇帝に朝貢し、その土地の王として認めて貰う事) から離脱し、独自の文明圏としての歩みを始める。それに対し て、朝鮮は近代に到るまで冊封体制の優等生であった。[e]
扶桑社は太子の狙いを明確に記述している。
このときの隋の皇帝にあてた手紙には、『日出づる処の 天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや』 と書かれていた。太子は、手紙の文面で対等の立場を強調 することで、隋に決して服属しないという決意を表明した のだった。
これに対し、日本文教出版は「小野妹子らを、隋に派遣した」、 教育出版も「隋との国交が開かれ、小野妹子らが遣隋使として 送られました」と結果を記すのみで、太子の意思がまったく書 かれていない。
東京書籍では「東アジアでの日本の立場を有利にし、中国の 進んだ制度や文化を取り入れようと、小野妹子らを隋に使わし (遣隋使)、多くの留学生や僧を同行させました」とあるが、 これでは隋との友好が日本の立場を有利にするという意味にも とれ、独立対等外交の意義が伝わらない。
特に「東アジア世界の朝貢体制と日本」という一頁の主題学 習では、「中国は、古代から近代にかけて、朝鮮や日本など、 周りの国々との間に『朝貢』とよばれる関係を結びました」と あり、日本が韓国と同様、近代まで中国に服属していたかのよ うな誤解を与える。
■5.元寇をどう記述しているか■
元寇は、モンゴル帝国による世界征服に対する我が国の独立 維持の戦いであった。フビライの最初の国書が「応じなければ 武力を用いる」、二度目の国書が「日本の人民と土地の略奪」 と明言している事実からも、モンゴルの武力恫喝と侵略意思は 明白である。
この点、扶桑社はフビライが「独立を保っていた日本も征服 しようとくわだて」と、日本侵略の意図を明記している。
ところが、日本教文出版は「服属をこばんだ日本に大軍を送っ てきた」、教育出版は「服従しようとしない日本に遠征軍を派 遣しました」などと記している。素直に服従していれば、戦争 は避けられた、とでも、言いたいかのようだ。戦後の無抵抗平 和主義の表れであろうか。
大阪書籍は「武力を背景に」とするのは正確だが、「国交を せまりました」は、服属を国交に言い換えており、史実を歪曲 している。
東京書籍は「日本を従えようと」、日本書籍新社は「服属」、 清水書院は「日本もしたがえようと」、帝国書院「朝貢と服属」 などは正確な記述だが、それが武力恫喝を伴うものであった事 を記していないのは片手落ちである。
■6.「高麗の抵抗」■
元寇に際して日本側は挙国一致で激しく戦い、敵軍の上陸を 2ヶ月近くも防ぎ、それが結果的に暴風雨によるモンゴル軍の 全滅につながった[g]。
ところが不思議なことに、鎌倉武士の勇戦より、高麗の抵抗 を重視している教科書がある。教育出版は本文で「10世紀初 めに建国された高麗がはげしく抵抗し、30年以上も戦いが続 きましたが、ついには元に服従させられました」と記し、側注 で「高麗で三別抄とよばれる軍が3年にわたって抵抗をおこし たため、元の日本遠征はおくれました」と述べている。一方、 元軍と日本との間では「はげしい戦いがおこなわれました」と しか記していない。「武士の勇戦」よりも「高麗の抵抗」を強 調しているのである。
同様に、清水書院と帝国書院も「高麗の抵抗」に字数を割き、 「そのために日本遠征はおくれた」(清水)、「日本への遠征 を大幅に遅らせました」(帝国)などと、高麗が日本を助けた ような書きぶりである。これでは襲来してきた元軍には二度と も高麗軍が参加していた歴史的事実を薄められてしまう。
■7.日本が他国を攻めたら「侵略」、攻められたら「遠征」■
秀吉の朝鮮出兵に関しては、日本文教出版が「海を越える秀 吉軍」、扶桑社が「朝鮮への出兵」と記した以外は、すべて 「秀吉が朝鮮を侵略する」(日本書籍新社)「朝鮮侵略」(東 京書籍)などと、「侵略」という言葉を使っている。
ところが東京書籍、教育出版、日本書籍新社、帝国書院、清 水書院は、元寇に関しては「遠征」「遠征軍」などという表現 を用いている。『広辞苑(第5版)』によれば、「遠征」には 「征伐」という言葉があり、「鬼を征伐する」などと言うよう に、征伐する方が「善」、される方が「悪」というのが一般的 通念である。
日本が他国を攻めたら「侵略」、攻められたら「遠征」では、 常に悪いのは日本という事になる。
また元寇では「対馬・壱岐二島の百姓らは、男はあるいは 殺されあるいは捕らえられ、女は一カ所に集められ、数珠繋ぎ にして舷側に結びつけられるなどの残虐な行為を受けた」(小 学館『日本大百科全書』)が、これについては扶桑社が「略奪 と暴行の被害を受けた」と記す以外、他の教科書には何の記述 もない。
しかし、秀吉の朝鮮出兵に際しては、朝鮮兵の供養のために 建てた「耳塚」をあえて日本人の残虐性の象徴として紹介した り(教育出版・日本書籍新社・清水書院・帝国書院)、日本書 籍新社に到っては、以下のような一文まで掲載している。
秀吉軍にしたがって朝鮮にわたることを命じられた一人 の僧は、日本軍の残虐なふるまいに出くわし、「野も山も 焼き払い、人を切り、人の首をしばる。そのため、親は子 どもをなげき思い、子どもは親をさがし回るあわれな光景 を見た」と日記に記した。
■8.韓国併合をどう記述しているか■
韓国併合に関しては、教育出版は以下のように述べている。
日本は韓国の抵抗をおさえて、1910(明治43)年、韓国 を植民地とし(韓国併合)、韓国を朝鮮とあらためて、朝 鮮総督府をおいて支配しました。
他の教科書も同様であるが、韓国併合に関して押さえておく べき、いくつかのポイントが書かれていない。
第一に、武力を背景にしていたとはいえ、併合は韓国側の李 完用・総理大臣が調印した「日韓併合条約」に基づいて、合法 的に行われたという点である。これは日本政府の正式見解であ り、今後の日韓国交上にも影響を与える重要なポイントである。 この点は扶桑社を含め、どの教科書にも記述がない。[h]
第二に、日本の韓国併合の目的は、植民地として搾取するこ とではなかった。この点は扶桑社が「日本政府は、日本の安全 と満洲の権益を防衛するために、韓国の併合が必要であると考 えた」と指摘している。[i]
第三に、この目的のためにも、「朝鮮総督府は植民地政策の 一環として、鉄道・灌漑の施設を整えるなどの開発を行い」 (扶桑社)、韓国の近代化に努めた。さらに、医療や教育の普 及、大規模な植林などを行って、生活向上に努めた結果、1906 年(明治39年)からの20年間で、人口が倍増したという点 も述べておくべきであろう。[j]
他の教科書は、このような点を述べないばかりか、大阪書籍 などは「学校では、日本語や日本の歴史を強制的に教えました。 このように朝鮮民族の歴史や文化を否定し、日本に同化させる 政策を進めました」などと、述べている。史実は、韓国併合当 初から昭和12(193)年頃までは、日本語とともに朝鮮語も学 校で必須科目として教えられていたのである。
■9.二つの「終戦時の光景」■
最後に、日本の敗戦をどう記述しているか、を見てみよう。 扶桑社は「聖断下る」と題して、終戦時の光景を次のように記 述している。
9日深夜、昭和天皇の臨席のもと御前会議が開かれた。 ポツダム宣言の即時受諾について、意見は賛否同数になっ た。10日午前2時、鈴木首相が天皇の前に進み出て聖断 をあおいだ。天皇は、ポツダム宣言の即時受諾による日本 の降伏を決断した。8月15日正午、ラジオの玉音放送で、 国民は長かった戦争の終わりと、日本の敗戦を知った。明 治以降、日本の国民が初めて体験する敗戦だった。
先の大戦について、どのような意見を持つにしても、この終 戦時の光景は、日本の長い歴史の中でも胸に刻むべき一ページ である。
一方、日本書籍新社は「ソウルの西大門刑務所から出獄した 独立運動家たち」の写真を載せ、「日本の支配下で独立への願 いを強めていたアジアの人々は、日本の敗戦とともにいっせい に立ち上がった」と書いている。
教育出版も「1945年8月15日のソウル」という別の写真を 載せ、「朝鮮をはじめ日本の植民地や占領地の人々は解放され ました」と書いている。他の教科書もおおむね同様である。
終戦時の記事で、戦場にもならなかったソウルの光景をなぜ これほどまでに取り上げねばならないのか? 韓国の歴史教科 書なら、まだ理解もできるが。
以上の読み比べから、なぜ韓国が扶桑社の教科書に異常な敵 意をぶつけてくるのか、明らかだろう。扶桑社の教科書では、 他社のように韓国・北朝鮮への贖罪意識を日本の中学生に植え 付けられないからだ。李揆亨スポークスマンの「わい曲された 歴史教科書の採択が、日本の育つ世代に過去歴史に対する誤っ た認識を与え」とは、まさにこの事を述べている。
しかし、弊誌にも理解できないのは、なぜ他の教科書が揃い も揃ってこれほどまでに「韓流」なのか、という点である。こ の点は、出版界の事情に詳しい読者からの意見を待ちたい。
(文責:伊勢雅臣)
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