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[718]「南京事件」四題 ゆう 05/8/4(木) 21:18

[718]「南京事件」四題
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 ゆう E-MAILWEB  - 05/8/4(木) 21:18 -

引用なし
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   最近読んだ本から、「南京事件」に関する記述を拾ってみました。


まずは、高木惣吉氏『自伝的日本海軍始末記』。元海軍少将です。実はこれ、検索してみたら既に「反米嫌日戦線」というところで紹介されておりました。従ってネット初出ではありませんが、なかなか興味深い文章でしたので、ここにも紹介しておきます。

海軍大学在学中の、講義に関する感想です。

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三潴(みつなみ)信三博士の法学通論は、まじめな講義だったが、教科書の棒読みで無味乾燥、遠藤源六博士の国際法ときては論旨も不徹底だし、現実問題にてらしても、腑におちない点が多かった。

谷大佐の陸戦術は、興味と教訓の多い名講義だったが、ただひとつ私の心に引っかかったのは、
「勝ち戦さの後や、追撃戦のとき略奪、強盗、強姦はかえって士気を旺盛にする、云々」
という所見であった。

後日、日華事変で柳川兵団に属した谷師団長が、南京残虐事件に連座されたことは周知のことであるが、残念でならない。

(同書 P65)

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この谷師団長(当時大佐)の話、大宅壮一氏の、「あの人(柳川中将)は上陸と同時に、演説をブッたそうですね。「山川草木、全部、敵なり」。ひどい非常手段で進んできたんです。ボクら、南京に入るときにあの兵団と会いましたよ」との証言を、想起させます。

http://www.geocities.jp/yu77799/ootaku.html


さて次は、外交官、田尻愛義氏。「蒋介石対手にせず」(正確には、「相手にせず」ではないんですね)声明への批判の中に、「南京」の話が挟まれています。原文は改行がなく、以下の文章すべてで一段落ですが、ここでは読みやすくするために随時改行してあります。

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戦争の対手を平和交渉、講和の相手とすることを当初から否認してかかる非常識な戦争が一体あるものであろうか。どこかが狂っている。それでは外交活動が一切無用になるわけで、こんな無茶な声明はない。しかも外務省が起案したとは全く口が塞がらない驚きであった。

さらにまた日本は占領地行政を成功させる自信があるのか。軍の内面指導下にある北支の実情、上海市新政府の樹立運営計画の頼りなさからみて、否定の答しか出ない。

もっと大切なことは、一体日本に戦争遂行の力があるのか。日本軍の士気は低調そのものであって中国軍の方がはるかに高い。捕虜をみても、どうも大和魂は先方に乗り移った感がする。南京入城のときの日本軍の略奪陵辱などの残虐行為は、松井石根大将に同行して、外国宣教師や教授と一緒にその防止に当った岡崎勝男君(後の外務大臣)の直話によっても聞くに忍びないものがあった。また蘇州河を引揚げてくる兵隊の首には女用の狐の襟巻、腕には金時計がキラついていた。

私はときどき松井さんを上海の司令部に訪ねたが、世間話が好きな枯れた人物だが、政戦ともに統率力がなく、柳川兵団の過早な南京攻略を抑えられなかった。

も一つ軍歌や歌謡曲に何かしら哀調があった。狭い見聞だが、私には日本軍が戦い抜く力が溢れているとは思えなかった。一九四五年の敗戦はこの時から始まっていたとも言える。これは今日まで持ち続けてきた私の偽らざる感想である。要するにこの声明は外交の大失敗であった。

川越大使は間もなく帰朝して、代りに臨時代理の人が来たが、平和の話は放任された形になった。私が特に連絡を心がけたのはハレット・アーベンド記者と英国の財務官ホールパッチさんの二人であった。この二人は英国大使が負傷したとき同乗していた。この二人は上海事変は中国側に落度があったとの意見を変えなかったのは心強かった。

しかし、無為に日がすぎていくうちに、夏になって帰朝命令がきた。天津以来、生臭い中国を去るわけで、やっと救われたという感じを禁じ得なかった。
(『田尻愛義回想録』P61〜P62)

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外国人の記録にたびたび顔を出す日本大使館の岡崎勝男氏が、日本側文献に登場している珍しい例です。岡崎氏は、「聞く忍びない」日本軍の残虐行為について、語っていたようです。この通りだとしたら、当時の日本大使館の雰囲気が伺えて、興味深いところです。

最後にあのアベンド記者の話がちょっと出てきますので、あえて長文引用を行いました。


「南京」とは関係ありませんが、田尻氏は、日本占領下のフィリピン大統領、ラウレル氏について、次のようなエピソードを記しています。

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マニラに着くと寺内寿一元帥がインドシナに移り、軍司令官は山下奉文大将、参謀長は武藤章君に代わっていた。寺内さんは北京時代に上海の私に揚子江の本流の中心から水を酌んで、江南の竹筒につめて送れと注文した茶人であった。マニラでは抹茶に招いて悠々歓談を楽しんだ閑人であった。しかし情勢は二ケ月の問に急転し日本軍にいよいよ不利に傾く一方で、フィリッピン側にとっては軍の強圧がいよいよ激しく感じられていきつつあった。

たとえば、ラウレル大統領の権威を無視して対等な地位におくような姿勢で、ラモスの愛国党結成を軍が歓待する式があった。ラモス党の決死の奉仕は尊いものにちがいなかったが、珍しくタイプした式辞を読みおえた大統領が、司令官を前にしてもち前の原稿なしの演説調になり、天に二日なし、フィリッピン大統領を軽視することを許せないとタンカを切ったのはその一つであった。

また私は大統領と昼食を一緒にしながら彼の軍にたいする不平の聞き役、慰め役をつとめたが、一度はこんな場面があった。彼の近親が軍の出先のものに苦しめられた事件のあった後であったが、

「われわれフイリッピン人は日本軍のお蔭で独立しました。心底から有難い。この感謝は永久のものです。しかし独立後に一体日本軍は何をしてきたか。われわれを抑圧するばかりである。われわれには現在実力がない。しかしもしわれわれが実力をもった後でもなお日本軍が今のように無軌道であるならば、必ず復讐します。」

歯をくいしばって、拳で机をたたいて、私を前にして「復讐をする」と憤懲をもらした。ラサールの血を引いたナショナリズム、独立心の発露、まさに愛国の志士だと私は感銘したことであった。

(同書 P113〜P114)

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ネットの世界では、アジア各国の政治家たちの日本称賛の言葉をずらずら並べて、日本の「大東亜」進出はアジア中から感謝されていた、とこじつける論調が流行しているようですが、どちらかといえばこのラウレル大統領の発言の方が一般的なものであると考えるのが、普通の感覚でしょう。


さて次は、西里竜夫氏『革命の上海で』。氏は、日本人中国共産党員。このころは、読売新聞の記者として中国戦線を見て回っていました。直接に「南京」を体験したわけではありませんが、次のような証言を残しています。

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後日、私の家で働いていたニャンイ(女中さん)が、この大虐殺の生き残りで、そのときの日本軍の悪鬼のような惨虐行為の情景を、怒りに声をふるわせながら話してくれた。彼女も、日本軍から暴行を加えられ、悪夢のようなその恐怖を涙ながらに訴えた。私は、耳をふさぎたい思いがした。
(『革命の上海で』P207)

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「48人の証言」などを読むと、自分が雇っていた中国人から何も聞かなかったことを「なかった」根拠としている記者もいたようです。きちんと問いかければ、このような話を聞けたのかもしれません。


最後に、南京進撃時にマラリヤにかかり、部隊から落伍してそのまま江南の地をうろうろしていたという体験を持つ、三好捷三氏。こちらも直接に南京攻略戦に参加したわけではありませんが、従軍時の体験から、このような「感想」を述べています。

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最近もまた南京大虐殺の有無について大きな話題を呼んだりもしたが、私としては数の大小はともかくとしても、日本軍が虐殺行為を犯したことは事実だと思う。現に私が上海で戦っていたときも、侯家宅で中国兵の捕虜を火あぶりにしていたのを見たことがあるし、呉淞の近くで捕虜を二、三人銃殺している現場を目撃した。そればかりでなく、民間人を殺してクリークに投げこんでいる日本兵の姿も何度か目にしていた。したがって、日本軍にかぎって虐殺行為は絶対になかったとはいいきれない。
『上海敵前上陸』P232)

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「上海戦線」の雰囲気が伺える証言です。

余談ですが、この本によれば、三好氏のような「落伍兵」は、五人、十人と集団をつくって、食糧確保などで協力しあって生き抜いていたようです。本を読む限りでは三好氏の「集団」は比較的規律正しかったようですが、このような「はぐれ集団」が部落を襲うなどの「非軍紀行為」を犯していた可能性は、決して否定できないように思います。
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