|
ネットでは、しばしば「連合軍の残虐行為」の例証として紹介されます。どうやら引用者の意図は、「日本軍の残虐行為」(特に中国大陸におけるもの)と相殺を行おうということであるようです。
最も引用頻度が多いのが「1944年8月11日」の記述ですが、ほとんどの紹介がごく一部分にとどまります。以下、同日分の主要部分を紹介します。
確かに「連合軍の残虐行為」が行われた気配はあるのですが、個々の話については、これだけで「史実」と断定してしまうには、私にはちょっと弱いように思われます。また、リンドバークは同時に、日本軍の人肉食などを取り上げ(これもまあ「噂話」のレベルではありますが)、「東洋人の方がもっとひどいように見受けられる」と、日本軍に対する非難を行っていることも見逃せません。
まあ、あまり私の詳しい分野ではありませんので、見当違いの紹介をしていても、どうぞご容赦ください。
★★★★
1944年8月11日 金曜日
(略)
数日前、私は十九人にのぼる日本軍将兵の捕虜を目撃した。ピアク島の原住民が戦闘用のカヌーで運んで来たのである。そのうちの一人
― 若者で、誇りが高く、胸を張って健康状態も良好だったが ―
将校だということであった。
ほとんどが知的でない顔付きをしていた。かなり栄養が良く、健康状態も良好とみられる捕虜が何人かいた。若干名は全身が皮膚病に覆われ、憔悴して脚を引きずっていた。
二人は餓死寸前に見えた
― 手足は骨と筋だけ ―
自力ではたっておれぬので、原住民に片側から抱きかかえられていた。
彼らはあの石灰岩の湿気と悪臭とに満ちた洞窟に住み、戦い、そして戦友の死体がなお腐り続けているあの日本兵と同じ人間なのだと思った。
ライフルで武装された原住民に囲まれながらトラックに押し込まれる彼らを、わが方の将兵は集まって物珍しげに眺めやった。
明りのいくらか貧弱なテント内で空箱や簡易ベッドの端に腰掛けたまま、日本兵捕虜の問題を話し合った。
私は自分の考えを述べた、相手を捕虜に出来るいつ如何なる時でも投降を受け容れないのは間違いだ、投降を受け容れればわれわれの進撃は一段の速くなり、多くのアメリカ人の生命が救われるであろう。とにかく投降した場合は必ず殺されると考えるようになれば、彼らは当然踏みとどまり、最後の一兵まで戦い抜くだろう ― そして機会があるごとに捕虜にしたアメリカ軍将兵を殺すであろう、と。
大多数の将校は私の意見に同意したが(さほど熱烈に同意したわけではないが)、しかし、わが方の歩兵部隊はそのように考えてはおらぬようだと言った。
「たとえば第四二連隊だ。連中は捕虜を取らないことにしている。兵どもはそれを自慢にしているのだ」
「将校達は尋問するために捕虜を欲しがる。ところが、捕虜一名に付きシドニーへ二週間の休暇を与えるというお触れを出さない限り、捕虜が一人も手に入らない。お触れが出た途端に持て余すほどの捕虜が手に入るのだ」
「しかし、いざ休暇の懸賞を取り消すと、捕虜は一人も入って来なくなる。兵どもはただ、一人もつかまらなかったよとうそぶくだけなんだ」
「オーストラリア軍の連中はもっとひどい。日本軍の捕虜を輸送機で南の方に送らねばならなくなったときの話を覚えてるかね? あるパイロットなど、僕にこう言ったものだ、捕虜を機上から山中に突き落し、ジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告しただけの話さ」
「例の日本軍の野戦病院を占領したときの話を知ってるかね。わが軍が通り抜けたとき、生存者は一人も残さなかったそうだ」
「ニップスも、われわれに同じことをやってのけたのだからね」
「オーストラリア軍ばかりを責めるわけにはいかない。性器を切り取られたり、ステーキ用に肉を切り取られたりした戦友の遺体を発見しているのだ」
「オーストラリア軍は、ジャップが本当に人肉を料理していた場所を占領したことがある」(咋日、戦闘飛行隊の掲示板に、ピアク島で戦友の人肉を料理中の日本兵数名が捕えられたという告知が出たばかりである
)
侵攻作戦の初期に、人間らしい慈悲心が僅かしか示されず、わが軍が数知れぬ残虐行為を犯したという事実はかなり明白に立証される。後日、戦略拠点が確保されてからは、一部の日本軍将兵も殺害される心配がなく投降できるととを悟るに至った。
しかし、わが軍も時には野蛮だが、東洋人の方がもっとひどいように見受けられる。
(リンドバーグ『第二次世界大戦日記』(下)P549〜P550)
★★★★
| |