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今さら解説の要もないでしょうが、「転戦実話」は、昭和15年発行の、熊本第六師団兵士たちの手記集です。東中野氏は、「新資料発掘」と銘打って、何とこれだけをネタに、「1937南京攻略戦の真実」という本を書いてしまいました。
帯には「発見! 虐殺論争に終止符か!?」なんて大層なあおり文句があります。卒業文集に「荒れた」話がひとつもなかったからといって、「この学校で校内暴力があったというマスコミ報道はウソだ」と言っているみたいなものですね。生徒が「自主規制」したか、先生が検閲したか、に決まってるじゃない(^^)
この本、さすがに入手困難。少なくとも、私の力では捜しきれません。国会図書館にもないようです。はるばる偕行社まで出かけていって、見せてください、という度胸もないし(^^;
ただまあ、東中野氏の感動ぶりとは裏腹に、この「転戦実記」、実際には研究者の間ではよく知られた資料であったようです。確か、洞氏だったか吉田氏だったかの本でも、ここからの引用を見たことがあります。
吉見義明氏の「毒ガス戦と日本軍」と読んでいたら、この「手記集」がしっかりと「毒ガス戦」の資料として使われておりました。以下、紹介します。
項目の書き出しは、「この作戦(ゆう注 贛湘作戦)では、毒ガス戦に参加した熊本第六師団の兵士たちの体験記録が、町尻部隊編『第六師団転戦実話』贛湘編(一九四〇年)の中に数多く集録されている」(P102)となっています。具体的な手記は、4つです。
●工兵第六聯隊第一中隊 H・Y伍長(原文実名。以下同じ)
昭和十四年九月二十三日朝まだき、愈々新墻河の敵前渡河を決行するといふので、架橋材料中隊は無数の折畳舟を準備してゐます。・・・午前八時、攻撃の火蓋は切られ、天地も轟くばかりの壮観です。
間もなく赤筒がたかれました。始めて見る化学戦です。最初のうちは追風で、とても都合よく行きましたが、風が変って、私達の方に流れてきます。
予め命に依って皆装面をして居りましたが、気の毒なのは苦力です。フウフウ言って苦しんでゐます。前のクリークに顔を突込ませましたが、無駄です。
●熊本歩兵第一三聯隊聯隊砲中隊 H・R軍曹
愈々攻撃開始、野戦瓦斯隊が盛んに特種発炎筒を焚き始めました。もくもくと黒煙が天地を覆ひ始め、盛んに敵陣に吹きかけて行きます。絶好のチヤンス、と思ふ間もなく、風向が変つたか、瓦斯は友軍陣地を覆ひ始めました。早速、防毒面の御世話になりました。土民が瓦斯に追はれ、一生懸命逃げて来ます。涙をボロボロ流して居ます。
●歩兵第十三聯隊第七中隊 K・S(階級不明)
「九月二十三日午前八時三十分、一斉に渡河に移る、状況により瓦斯を使用す」と云ふ命令が達せられました。瓦斯使用の戦闘は今回が始めてです。平常も欠かさず防毒面は携行するものの、今迄にない緊張を覚えました。
・・・・やっと八時になりました。野砲、山砲が火蓋を切りました。続け様の発射音に朝の静寂は破られ、俄かに戦禍を避けんとする土民の群が、何処も兵隊で一杯で、逃場も無いのにうろうろして居りました。
砲が斯んなに協力するのは今度が始めてです。砲が一寸でも沈黙すると、〔国民党軍の〕チエツコが気狂ひの様に癇高い音を立てます。
後方にある聯隊本部の真上に、白三星〔信号弾〕が打上げられたと思ふと、中隊長殿の右手がサツと挙げられ、私達は一斉に渡河し始めました。野砲は正面の敵陣に集中射を浴せて居ます。私達は装面して居ますので、敵弾が砂煙を上げるのは判りますが、音は全然聞へません。
目前に迫る敵陣、苦しい呼吸の中に、着剣をして対岸陣地に突入、血走った眼で四辺を見廻しますが、二、三の遺棄屍体があるだけで、もう潰走して居ます。野砲が敗走する敵兵の上に、小気味の良い榴散弾を浴せて居ます。未だ霧の様に瓦斯が残つて居ますので、脱面の命令が出ません。頭がズキンズキンと痛み出し、次第に感覚が痳れて来ました。
やがて霧のような瓦斯が晴れて、脱面を許されました。正面の第二線陣地は如何したのか、固い沈黙を守って居ます。
●歩兵第十三聯隊第一大隊本部 T・Y輜重兵一等兵
暫くすると前の方が霧がかつた様になり、だれかが「ガス」と叫んだと同時に目鼻が痛みだし、古兵殿達は直に装面しましたが、私達新兵五名は防毒面も無く、苦しくなるばかりです。早速タオルに水を一杯湿して口鼻に当てましたが、苦しさは激しくなる一方で、一刻も早く安全な場所に行きたいのですが、目は開けられず、口は利けずの有様・・・・生死の境を突破せんと一生懸命になつてゐる姿は真剣です。
他人事ばかりでなく、私も寄りついては行くものの、大きな石に突き当り、足は打つ、顔や頭を地面に按りつけ、タオルから服一切泥だらけです。顔を覆ってゐるタオルの水は、鼻から口に通り、舌にタオルが触れる度毎に、塩辛く苦い味が愈々増して来て、此処で死ぬのではないかと思ひました。
東中野氏が紹介する「卒業文集もどき」よりも、ずっと面白い。しかし当時、「毒ガス戦」について書くことは、タブーではなかったのですね。少し、驚きました。
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