>北京議定書(義和団事件処理規定)には「居留民保護」目的の列国の軍隊駐留を認めています。北京と天津には日本軍駐留を議定書は認めていますし蒋介石政権も日華開戦以前もその議定書の有効性を認めています。 >で、その「居留民保護」任務に必要な軍用電線が修理しても修理しても廊坊で切れてしまうのです。
何で、日本軍が駐留しなきゃいけないのか聞いているのよ。頭大丈夫?何しに中国に駐留しに行ったのよ?
>第一次上海事変の交戦当事者くらいご存知でしょ?
なんで戦争しているか聞いているのよ、頭大丈夫?
満州事変以降の日本の華北進出に日中関係は悪化していた。 各地で抗日勢力との局地的な衝突が繰り返され全面戦争へむけ世相はエスカレートする傾向にあった。 中国側は「一面抵抗一面交渉」のスローガンの元日本との小競り合いの中、本土統一を成し遂げ国共統一戦線を完成しこれ以上の対日譲渡を行わない、との基本姿勢が固まりつつあった。
日本側では一般市民は政府マスコミの喧伝する「暴支庸場」のスローガンの元、「中国など一撃で屈服する」と言う楽観派が主流であった。が軍部においては「全面戦争は中国共産党に利するのみ」と言う不拡大派が上層部の主流であり拡大派と激しく論争していた。
#余談、この当たりは映画「ラストエンペラー」で紹介されるよな日本軍部ののイメージと言うは実際とは異なっているのではないでしょうかね?(^^ゞ欧米はこの辺の思想や本質を正しくは理解してないですね。向こうの人にとっては信じられない事なのかも知れませんが、個人個人は中国の皇帝に対し心からの敬意を持っていたであろうし日本人個人の中に自己益追求の為の満州建国と言う観念はなかったはずです。甘粕さんと言う人物描写はちょっと気の毒だとおもいます。
そんな中 1937年(昭12)7月7日北京郊外の盧溝橋で数発の銃声が響いた。盧溝橋事件の発端である。夜間演習中の日本の支那駐屯軍の小部隊に向けて発砲があったのだ。通常では現地交渉で解決していた程度の事件である、事実その様な解決に向かっていたはずであるが突如としてこの小競り合いが拡大し1ヶ月後には全面戦争に突入する事になるのである。
この事件がなぜエスカレートしてしまったのか?、「一触即発」と捕らえらる事も出来る当時の状況を考えて見ると当然の様にも思えるが、兎にも角にも全面戦争の発端となった事件である、次に考えて見たい。
#「一触即発」?、、「一発触発」だっけ?(^^;
さてこの事件の報が上層部にどの様に伝わりまたどのような対応があったのかを検証して見よう。
まず問題の発砲事件に付いては諸説あるようですが隊から迷子になった兵士がうっかり敵陣に近づき過ぎたために銃撃された、と言う説が有力の様です。
○登場人物解説中隊長清水節郎大尉 発砲を受けた部隊の指揮官大隊長一木清直少佐 その上官連隊長牟田口廉也大佐 同じく
7日発砲を受けた清水中隊は即座に演習を中止し点呼した所一人の兵士の行方不明が発覚。牟田口大佐に報告が入り大隊長一木少佐に対し「戦闘隊形で中国側と交渉するよう」との命令をだす。命令を受けた一木少佐は大隊を引き連れて盧溝橋に出発。
8日午前2時すぎ到着すると行方不明の兵士は帰隊していた。従って命令にある解決すべき事件は解決済みであり兵を引き上げて本来の任務に復帰すべきであった。しかし、
「実弾射撃をやれば日本軍は演習をやめて逃げて行くという観念を彼等(中国軍)にあたえるのは遺憾だから」という理由で「断然攻撃したい」と牟田口に電話し、許可を得て「軍の威信上奮起し」、夜明けをまって攻撃した。(#一木少佐本人の証言)
とあるように実態は定かではないがとにかく日本軍は発砲のあった中国軍陣地竜王廟を制圧したようです。その後局地的な停戦協議を経て、
11日停戦協定成立協定内容 >
中国側当事者である第29軍代表の日本軍に対する遺憾の意の表明と責任者の処分、廬溝橋からの中国軍の撤退、抗日団体の取締り と言う事で一旦この事件は収束する事になる。ただ、ここで注意しておかねばばならないのはこの協定内容の理不尽さである。中国軍は夜間陣地付近をうろつく不審者を銃撃したに過ぎない。(詳細は不確かであるが、、。)
しかもそこは中国領であり日本軍は中国領で演習を行っているのである。敵対する国家の軍が自軍の陣地の目と鼻の先でしかも領内でこれ見よがしに演習を行っているのである。
さて、理不尽ではあっても一旦収束したこの事件は事実実際にはその後拡大してしまった。両軍首脳の動きを動きを追わねばなるまい。次にそれを検証して見たい。
○停戦協定のあったその日近衛内閣は五師団の華北派遣声明を出している。 7/28、支那駐屯軍の北京総攻撃 7/29、通州事件を経て7月末には北京、天清を占領。</font>
○増兵を待って南下作戦を開始。 8/13、上海で戦闘開始(第2次上海事変)陸軍上海派兵閣議決定 8/15、上海派遣軍編組、近衛内閣南京政府断固膺懲声明、日中全面戦争突入南京渡洋爆撃 8/31、北支那方面軍編成
#宣戦布告も行わず北支事変支那事変と呼び戦争ではないと主張しながら他国の都市を武力で制圧していくこの現象を「侵略ではない」と言う人の頭の中を覗いてみたい。
例えばここで「南京事件」岩波新書の著者笠原氏の手法を真似て先に南京渡洋爆撃から海軍の動きを見てみよう。8/15
の段階では日本軍中央と政府は不拡大方針をとりこれは決して戦争ではない、と言う対外姿勢を打ち出していた。確かに軍中央は中国との戦争突入は避けたかったに違いない。外務省東亜局長の石射猪太郎氏の日記からよく引用される資料からその辺の苦悩が伺える。あくまで宣戦布告でなく南京政府断固膺懲声明でならねばならなかった。(実質戦争が起こっているのは派遣軍をコントロール出来ずにいた為)このような立場の日本にとって南京爆撃など行う理由はなかった。
笠原氏は海軍の戦略意図から強行されたものである、と見ている。ここで強行と言うのはこの爆撃が実験的な長距離爆撃であり天候的にもかなり無理を押しての出撃であった事を指す。
陸軍は「北進論」(ソ連が主敵)でありそれが日本のそれまでの外交政策であったが、海軍はそこに「南進論」(米英が仮想敵国)を入れさせ改定させている。
海軍内にはその軍備に関して二派の対立があった所謂「戦艦決戦思想」「巨艦巨砲主義」と山本五十六中将に代表される「航空戦力主体、戦艦無用論」の二派の対立である。が海軍の主流は戦艦決戦思想であり、先の英米との決戦を見越した山本五十六はなんとしても航空戦力の有効性を認めさせたかった。しかも対米戦略の主な骨子である「地上基地から戦略爆撃」の実験演習的にも実現したかった。
#ここで注意、当時首都への無差別爆撃など明らかに戦規違反であり人道的見地からも容認できるものではなかった、事実この爆撃により日本は外交上孤立してしまった。ゲルニカ爆撃を除きそれを行ったのは日本が最初である。(この辺不確か歴史年表でどっちが先か調べてください。その上陸軍は虐殺事件を引き起こしてしまったのだ。それまでの戦争と言うのは軍人だけの殺し合いであった。
ここに南京渡洋爆撃は敢行される事となる。「爆撃はかならずしも目標に直撃するを要せず、敵の人心に恐怖を惹起せしむるを主願とするをもって、敵の防御砲火を考慮し、投下点を高度二千ないし三千メートル付近に選定し、かつ一航過にて投下を完了するごとく努められたく」南京空襲部隊制空隊の戦闘要領に関し希望事項と言う通達を伴いながら、、、、。
この宣戦布告を伴わない無防備都市への爆撃は中国全土に及び、南京城区だけで民間人392人死亡、破壊家屋七、八百戸に達した。世界の世論は一斉に日本を非難した。が南京市民にとっては単なる前兆に過ぎなかった、、、、、。
この海軍の戦略爆撃は、外国からの非難を外交的手段でかわし孤立を避る為に上海戦を、局地的な紛争で片付けたかった軍中央及び政府の思惑を吹き飛ばしてしまった。軍部内の拡大派が急速に台頭してきたのである。
この状況を踏まえて、話を戻し陸軍の動きを追って見たい。海軍の南京爆撃は解説したようなわけでしっかりとした作戦計画に沿った、行動であったが、陸軍は対照的に行き当たりばったりのなし崩し的な戦争突入であった。(笠原見解)
○盧溝橋事件発生時陸軍中央参謀本部首脳 *(拡)拡大派
*(不)不拡大派 |
参謀総長 |
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閑院宮載仁親王 元帥 |
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+参謀次長 |
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(不) 今井清 中将 |
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+総務部長 |
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中島鉄蔵 少将 |
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+第一部長(作戦) |
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(不) 石原莞爾 少将 |
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+作戦課長 |
(拡) 武藤章 大佐 |
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+戦争指導課長 |
(不) 川辺虎四郎 大佐 |
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+第ニ部長(情報) |
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(不) 渡久雄 中将 |
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+欧米課長 |
丸山政男 大佐 |
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+支那課長 |
永津佐比重 大佐 |
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+ロシア課長 |
笠原幸男 大佐 |
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+第三部長(運輸) |
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(拡) 塚田功 少将 |
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+第四部長(戦史) |
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(拡) 下村定 少将 |
(参照資料、笠原「南京事件」、ただし一部派閥判定は とほほ
の主観) |
盧溝橋事件発生時事実上の統括責任を持つ今井清参謀次長は病気欠勤中。次長代行の立場にたつ石原莞爾少将は不拡大派の筆頭論者である。石原少将は「事件不拡大、現地解決」の方針を打ち出し各部長を説いて閑院宮参謀総長の決済を取りつけ参謀本部の不拡大方針を決定させた。
しかしこの決定に従い迅速に行動すべき直属の武藤章大佐はこれまた拡大派の筆頭論客であった。彼はこの参謀本部の決定に真っ向から反対し石原少将と激しく対立した。
さて軍内部に置いて上層部の決定に逆らい反抗するなど当時の日本軍の状況を持ってしてもあるまじき事である。なぜ武藤大佐のこのような姿勢が通用したのかは検証せねばなるまいが後に回して拡大派と不拡大派のそれぞれの論旨を先に見てみよう。
○石原を中心とした不拡大論目下は満州国建設の完成に専念し、対ソ軍備を完成し、これによって国防の安固を図らねばならぬ時期に、もし支那に手を出してこの計画を支離滅裂にしてはならない。今や支那は昔の支那でなく、国民党の革命は成就し、国家は統一せられ、国民の国家意識は覚醒している。日支前面戦争になったならば支那は広大な領土を利用して大持久戦をおこない、日本の力では屈伏できない。日本は泥沼にはまった形となり、身動きができなくなる。日本の国力も軍事力も今貧弱である。日本は当分絶対に戦争を避けて、国力・軍事力の増大を図り、国防国策の完遂を期する事が必要である。
○武藤を中心とした拡大論支那は統一不可能な分裂的弱国であって、日本が強い態度を示せばただちに屈従する。この際支那を屈伏させて概して北支五省を日本の勢力下に入れ、満州と相まって対ソ戦略体制を強化することが必要で、盧溝橋事件はそれを実現するため、願ってもない好機の到来を示すものである。この事件は楽観を許さない。これに対処するには力をもってする他に方法はない。それには兵力を増派して、状況によっては機を失せず一撃を加える。これによってのみ時局の収集ができるのである。 (以上『軍務局長武藤章回想録』、笠原(南京事件)より)
#この論戦を見てもわかるとおり拡大派の論旨は戦略政策等に乗っ取ったものではなく偶発的に起こったこの事件を口実になんの戦争準備もないに関わらず、戦略外交上の大義名分もなく単にその領土欲から発していることは万人が頷けるのではないだろうか?どなたかこの論の中にに国策上必要であった、等と言う論理を組み立てられる方がいましたら屁理屈でも構わないので是非ご披露願いたい。
この武藤大佐の拡大論が軍上層部に対し対立しえたのは陸軍中央中堅層の多数派であった事が下地にはなっているとしても軍内部の軍事作戦が多数決で決まるような軍は古今東西ありえず、軍として成り立つはずもない。もう少し検証してみようと思う。
この辺の様子は「笠原『南京事件』」でよく検証されている。笠原によるとつまりは当時の陸軍上層部は所謂下克上の風潮があり、手柄をたてた者の勝ち、と言う体質であったと言う。
例えば不拡大論者筆頭の石原莞爾少将自身がその様にしてその地位に上り詰めた人間であった。彼が関東軍参謀時代中央や上層部の統制を無視して謀略による柳城湖事件でもって満州事変を主導し成功を収めた、と賞され中央要職に栄転した者であった。
つまりその彼の姿勢を部下である武藤は見習ったのだ。
「われわれは[満州事件のときの]あなたのされた行動を見習い、その通りを内蒙で、実行しているものです」と答え、「そういうや否や、他の青年参謀どもが口を合わせて哄笑した」と言うのである。今村はさらに、石原や板垣征四郎らの「出世物語」が陸軍中央の参謀将校や外地の各軍幕僚多数のあいだに、「軍人の第一義は大功を収める事にある。功さえたてれば、どんな下克上の行為を冒しても、やがてこれは賞され、それを抑制しようとした上官は追い払われ、統制不服従者がこれにとってかわって統制者になり得るものだ」という軍紀紊乱の機運を醸成した。と記している
(藤原『南京の日本軍』、笠原『南京事件』)
とこれは南京事件の前年36年の出来事であるがこのような機運が陸軍中央に蔓延しており武藤を初めとする不拡大派は独断専攻をものともしない野心家を中心に形成されていた。
石原は上海出兵を断固阻止したく精力的に説得を続けたがついに押さえる事は出来なかった。
「今次の上海出兵は海軍が陸軍を引きずって行ったものといっても差し支えないと思う・・・・・・私は上海に絶対出兵したくなかったが実は前に海軍と出兵する協定がある」 (「石原莞爾中将回想応答録」)
とあるように実体は統制力のない陸軍を海軍内部の戦略野心による作戦行動が牽引し上海出兵が敢行された、と見るのが私には自然である。どこをどう見たら大東亜共栄圏の理想や正義感による出兵であったと見る事が出来るのか摩訶不思議、、、。
海軍の開戦理由対英米との決戦を見越した航空戦力の自軍戦艦巨砲主義者に対するデモンストレーション。陸軍の開戦理由盧溝橋事件は現地指揮官の顕示欲によるもの。中央は拡大派の暴支庸懲にみられる弱国に対する侮蔑差別観に支配された出世欲によるもの。政府の開戦理由何事も軍隊様のおっしゃる通り。
私にはどこをどう見てもこの様にしか見えない。どこに大東亜の理想や正義が在ったのだろうか?ぜひ教えてもらいたい。
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