「百人斬り」東京地裁判決(部分-014)

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《検討個所の確認と略記法》

    • (2) そこで,かかる基準に従い,本件各書籍の記載について,以下検討する。
      • ・・・《検討個所の確認と略記法》
        • @別表記事番号一の1の1(*)は,「中国の旅」単行本の「南京事件」の項に記載された記事の本文の一部であり,同一の1の2(*)は,同記事の注記部分に当たるもの (以下,まとめて「番号一の1の記事」という。)
        • A別表記事番号一の2の1(*)は,「中国の旅」文庫本の「南京」の項に記載された記事の本文の一部であり,同一の2の2(*)は,同記事の注記部分に当たるもの(以下,まとめて「番号一の2の記事」という。)
        • B別表記事番号一の3の1(*)は,「本多勝一集 第14巻 中国の旅」の「南京」の項に記載された記事の本文の一部であり,同一の3の2(*)は,同記事の注記部分に当たるもの(以下,まとめて「番号一の3の記事」という。)
        • C別表記事番号二の1の1(*)は,「南京への道」単行本の「百人斬り"超記録"」の項に記載された記事の本文の一部であり,同二の1の2(*)は,同記事の注記部分に当たるもの(以下,まとめて「番号二の1の記事」という。)
        • D別表記事番号二の2の1(*)は,「南京への道」文庫本の「百人斬り"超記録"」の項に記載された本文の一部であり,同二の2の2(*)は,同記事の注記部分に当たるもの(以下,まとめて「番号二の2の記事」という。)
        • E別表記事番号二の3の1(*)は,「本多勝一集 第23巻 南京大虐殺」の「百人斬り"超記録"」の項に記載された記事の本文の一部であり,同二の3の2(*)は,同記事の注記部分に当たるもの(以下,まとめて「番号二の3の記事」という。)
        • F別表記事番号三(*)は,「南京大虐殺否定論13のウソ」の「第6章第6のウソ『百人斬り競争』はなかった」の本文及び注記部分である(以下,まとめて「番号三記事」という。)ところ,

        上記@ないしFにおける各本文と各注記とは,いずれもこれを一体として読むことが通常の読み方であるものと解される。

        《 記事番号が書籍のどこのページを指すかは、文中の(*)をクリックして付録2の別表を参照してください 》

      • ・・・《「中国の旅」単行本記事における事実の適示》

        そして,番号一の1の記事(*)は,日本兵が中国人を大量虐殺したとされる南京事件を取り上げた「南京事件」の項において,その前後に,日本兵による別途の残虐行為が記載されている文脈の中で,被告本多が姜根福という人物から聞いた話として,両少尉が上官からけしかけられて行ったとされる「殺人競争」の具体的内容とともに,殺人競争がなされた区間が城壁に近く人口が多いことや,両少尉が目標を達成した可能性が高いと姜氏が見ていることが記載されており,さらに,その点に関する注記として,別表記事番号一の1の2の注記部分(*)において,野田少尉が105人,向井少尉が106人を斬ったものの,勝負がつかなかったため更に百五十人斬り競争が始まったことなどを報じる本件日日記事第四報が引用されている上,両少尉から取材したとする鈴木記者がそのときの状況を「私はあの"南京の悲劇"を目撃した」と月刊誌に報告していることや,野田少尉が故郷の小学校で語った話を直接聞いたとする志々目彰が,野田少尉は,実際に白兵戦の中で斬ったのは4,5人しかおらず,本当は,占領して捕虜となった敵兵を並ばせて片っ端から斬ったものであると語った旨月刊誌において紹介していること,両少尉が南京で裁判にかけられ,死刑が決定し,南京郊外で処刑されたことが記載されている。

        そうすると,番号一の1の記事(*)は,婉曲的な表現を用いつつも,対象となる本文,注記部分をその前後の文脈も含めて総合的に判断すれば,両少尉が,上官から,100人の中国人を先に殺した方に賞を出すという殺人ゲームをけしかけられ,それをいわゆる「百人斬り」「百五十人斬り」の殺人競争として実行に移し,捕虜兵を中心として多数の中国人を殺害したこと,その結果,両少尉が南京軍事裁判にかけられ,死刑に処せられたことを事実として摘示したものと認められる。

      • ・・・《「中国の旅」文庫本及び「本多勝一集第14巻中国の旅」における事実の適示》

        番号一の2及び同一の3の各記事(*)には,番号一の1の記事(*)と同一の記載があるほか,各注記部分において,二少尉のエピソードについて,弁護する著書や,それを応援する著書,批判する著書を紹介して論争のある旨が記載されている。なお,「中国の旅」文庫本の第16刷以降及び「本多勝一集 第14巻 中国の旅」においては,両少尉をすべて「M」「N」の匿名で表記しており,別表記事番号一の2の2及び同一の3の2の各注記部分(*)において,「捕虜を裁判もなしに据えもの斬りにすることなど当時の将校には『ありふれた現象』(鵜野晋太郎氏)にすぎなかった。日本刀を持って中国に行った将兵が,据えもの斬りを一度もしなかった例はむしろ稀であろう。たまたま派手に新聞記事になったことから死刑になった点に関してだけは,両少尉の不運であった。」という追記がなされている。

        そうすると,匿名処理がなされる以前の上記各記事は,両少尉のエピソードについて論争のある旨が紹介されるなど,論者の個人的な一見解の体裁が採られているものの,その記載内容を総合的に判断すれば,やはり,上記イで述べた番号一の1の記事と同一の事実を摘示したものと認められ,匿名処理がなされた以降の記事は,「M」「N」の二少尉に関する同一内容の事実を摘示したものと認められる。

      • ・・・《「南京への道」単行本記事における事実の適示》

        番号二の1の記事(*)においては,前章で唐栄発という人物が語った種類の腕くらべ殺人競争について,日本側にも似た記録がある旨の書き出しで,本件日日記事が引用された上,前記イ記載の志々目彰が月刊誌で紹介した野田少尉の言葉を受けて,「百人斬り競争」の武勇伝が「据えもの百人斬り」であり,捕虜虐殺競争の一例にすぎなかったことになる旨記載され,その後,?其甫(「襲其甫」とも表記されている。)という人物による「据えもの14人斬り」の証言,鵜野晋太郎による「据えもの斬り」の証言及び本件日日記事に掲載された「百人斬り競争」についての評価が引用され,加えて,別表記事番号この1の2の注記部分(*)において,「百人斬り競争」の当時の報道について,100パーセントでっち上げの虚報だとするルポがあるが,虚報の証明はついにできなかった旨記載され,百人斬り競争の二人の少尉が,南京軍事裁判で死刑にされた旨記載されている。

        そうすると,番号二の1記事は,婉曲的な表現を用いつつも,本件日日記事に掲載された「百人斬り競争」が虚偽ではないことを事実として摘示し,さらに,摘示されている事実からの推論の形式により論者の個人的な一見解としての体裁を採りつつ,両少尉による本件日日記事記載の行為がいわゆる「据えもの斬り」(通常,軍刀等を用いて座している者等を斬ることを意味する。)であり,捕虜虐殺競争を行ったものであること,及び,その結果,両少尉が南京軍事裁判で死刑に処せられたことを事実として摘示したものと認められる。

      • ・・・《「南京への道」文庫本及び「本多勝一集第23巻南京大虐殺」の記事における事実の適示と論評》

        番号二の2及び同二の3の記事(*)においては,いずれも,両少尉を「M」「N」として匿名表記した上で,番号二の1と同一の記載がなされているほか,別表記事番号二の2の2及び同二の3の2の各注記部分(*)において,前記ウ記載の「中国の旅」文庫本の第16刷以降及び「本多勝一集 第14巻 中国の旅」においてなされた追記と同様の記載がなされ,さらに,「両少尉は,裁判では『戦閾行為だった』と主張し,遺書では『冗談』とも『戦闘行為』とも書いている。その『冗談』にしても,Mは『Nが言った』と書き,Nは『Mが言った』と,一種なすりあいをしている。」と記載され,両少尉の遺書等が引用された上,「死刑判決の罪状は「捕虜と非戦闘員の殺害」だが,両少尉は判決後も『正規の軍事行動だった』と主張していた。つまり百人斬りの行為それ自体は認めていたのである。」と記載されている。

        そうすると,番号二の2の記事及び同二の3の記事においては,匿名で表記された「M」「N」の二少尉に関する事実として,上記エで述べたのと同一内容の事実を摘示したものと認められる。また,当該各記事においては,二少尉が,その遺書等において,Mの遺書中には「Nが言った。」と書かれていること及びNの遺書中には「Mが言った。」と書かれていることが事実として摘示され,その点について,「一種なすりあいをしている」との記載がなされているが,なすり合いをしたか否かということは,証拠等をもってその存否を決することが可能な他人に関する特定の事項とは理解できないことから,両少尉が遺書等において相反する記載をしたことについて,論評したものと認められる。

      • ・・・《「南京大虐殺否定論13のウソ」の記事における事実の適示と論評》

        番号三の記事(*)においては,はじめに,「二人の少尉が,どちらが先に100人を殺すかを競いあった『百人斬り競争』は『東京日日新聞』1937年11月30日付朝刊にその第一報が報じられた。虐殺否定派はこの記事を荒唐無稽な捏造記事として,南京大虐殺そのものをなかったことにする一つの根拠にしてきた。たしかに当時の厳格な言論統制の下では国威発揚のための武勇伝としてあたかも白兵戦でのことのように脚色されているのは事実であろう。

        だが,この記事が書かれた背景には常態化していた日本軍の虐殺行為が確実にあったのである。」との記述がなされ,さらに,この二少尉が南京裁判で死刑にされたことを指摘し,前記イ記載の志々目彰(「志乃目彰」と表記されている。)が月刊誌で紹介した野田少尉の言葉のほか,「日本刀はそんなにヤワか?」との主題の下,前記エ記載の鵜野晋太郎による「据えもの斬り」の話及び本件日日記事に掲載された百人斬り競争についての評価,襲其甫という人物による「据えもの14人斬り」の話を引用し,「これでも完全な『創作』といえるのか?」との主題の下,前記オ記載の遺書及びなすり合いに関する記載と同旨の記載をし,最後に「結論として,次のようなことが言える。

        すなわち,二少尉による据えもの斬りは確かであろう。ただしそれが100人に達したかどうかは誰も証明することができまい。だが,否定派がいう完全な『創作』とか『斬った中国人はゼロ』とかは,ありえないだろう。実態は以上に述べた通りである。」旨記載し,さらに,注記部分において,「日本刀による『試し斬り』や捕虜虐殺などは,当時の中国における日本将兵の日常茶飯事だった。たまたま表面化したおかげでMとNが処刑された点,二人にとって実に同情すべきところがある。」旨記載するとともに,洞富雄の「私はこの二人の将校は,あやまった日本の軍隊教育の気の毒な犠牲者であると考えている。個人の残虐性を責めるのではなく,その根源の責任が問われなければならない。」との著述を紹介している。

        そうすると,番号三の記事においても,匿名表記された「M」「N」の二少尉に関する事実として,婉曲的な表現を用いつつも,本件日日記事に掲載された二少尉による「百人斬り競争」が虚偽ではないことを事実として摘示し,さらに,推論による論者の個人的な一見解としての体裁を採りつつも,二少尉による本件日日記事記載の行為がいわゆる「据えもの斬り」であり,捕虜虐殺競争であったことを事実として摘示するとともに,前記オで述べたのと同様,二少尉が,その遺書等において,一種なすり合いをしていると論評したものと認められる。

    • (3) したがって,本件各書籍は,上記(2)のアからカまでに記載のとおりの事実を摘示し,又は論評を表明したものであると認められる。

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