「百人斬り」東京地裁判決(部分-043)

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《紹介:浅海記者に対する取材記事「週刊新潮」昭47.7.29 と、「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」 》
      •  さらに,両少尉の「百人斬り競争」に関連する記事,資料等として,以下のものがある。
        • (ア) 浅海記者に対する取材記事

          浅海記者は,「週刊新潮」昭和47年7月29日号誌上に掲載された「南京百人斬りの"虚報"で死刑戦犯を見殺しにした記者が今や日中かけ橋の花形」と題する記事において,取材に答えて,  《 以下「 」は判決者による引用の符号 》

          「  あなた方はきのうの出来事のようにいわれるが,なにしろ三十五年も前のことだ。記憶も不確かになっている。『諸君!』にあのように書かれて,私が十分に答えなくても,私は一つも損などしない。私の周囲のインテリは,あのような指摘があっても,一つも私がかつて書いた新聞記事のような状況がなかったとは疑いませんからね。何が真実かは,大衆と歴史が審判してくれますよ。鈴木(明)さんもジャーナリスト,私もジャーナリスト。彼の,私の書いた記事によって二人の生命が消えたという見方は,むろん異論はあるが,私のプライバシーをそこなわない限り,ジャーナリストが一つの考えにもとづいてお書きになることは,それが当然だ,私は文句はいいません。いずれ真相は,しかるべき専門のメディアに私自身の筆で書きますよ。

            それに,『諸君!』によれば,向井さんは,"日中友好のために死んでいく"といっておられる。感銘を受けましたね。敬服している。今,田中内閣もようやく日中復交をいい出したが,あの二人の将校こそ,戦後の日中友好を唱えた第一号じゃないですか。こんな立派な亡くなり方をなさった人たちに対して,今はもう記憶の不確かな私が,とやかくいうことはよくないことだ。それに,遺族もいらっしゃる。私はいわないほうがいい。

            当時,二人から話を聞いたことは間違いありません。私の記事によって向井さんらが処刑されたなんてことはないです。ご本人のなさったことがもとです。私は"百人斬り"を目撃したわけではないが,話にはリアリティーがあった。だからこそ記事にしたんです。判決をしたのは蒋介石の法廷とはいえ,証人はいたはずだ。また,私の報道が証拠になったかどうか,それも明らかではありませんからね。しかし,私は立派な亡くなり方をなさった死者と,これ以上論争したくないな・・・・」

          と述べた旨記載されている(乙4)

          また,浅海記者は,上記「ペンの陰謀」に「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」と題する文章を寄稿し,その中で,以下のとおり記載している(乙1)

          「  何しろ,もう三十数年も昔のことですから記憶が定かでありません。それに,当時の,筆者をふくむ東京日日新聞(大阪毎日新聞)従軍記者の一チームは,上海から南京まで急速に後退する『敵』を急追するという日本侵略軍の作戦に従軍取材していたので,その環境の悪さとともに,多種類の取材目標をかかえて活動していましたので,その個々の取材経験についての記憶はいっそう不確かになっているのです。連日の強行軍からくる疲労感と,いつどこでどんな"大戦果"が起こるか判らない錯綜した取材対象に気をくばらなければならない緊張感に包まれていたときに,あれはたしか無錫の駅前の広場の一角で,M少尉,N少尉と名乗る二人の若い日本将校に出会ったのです。  」

          「  筆者たちの取材チームはその広場の片隅で小休止と,その夜そこで天幕野営をする準備をしていた,と記憶するのですが,M,N両将校は,われわれが掲げていた新聞社の社旗を見て,向うから立ち寄って来たのでした。『お前たち毎日新聞か』とかといった挨拶めいた質問から筆者らとの対話が始まったのだと記憶します。

            両将校は,かれらの部隊が末端の小部隊であるために,その勇壮な戦いぶりが内地の新聞に伝えられることのないささやかな不満足を表明したり,かれらのいる最前線の将兵がどんなに志気高く戦っているかといった話をしたり,いまは記憶に残っていないさまざまな談話をこころみたなかで,かれら両将校が計画している『百人斬り競争』といういかにも青年将校らしい武功のコンテストの計画を話してくれたのです。筆者らは,この多くの戦争ばなしのなかから,このコンテストの計画を選択して,その日の多くの戦況記事の,たしか終りの方に,追加して打電したのが,あの『百人斬り競争』シリーズの第一報であったのです。

            両将校がわれわれのところから去るとき,筆者らは,このコンテストのこれからの成績結果をどうしたら知ることができるかについて質問しました。かれらは,どうせ君たちはその社旗をかかげて戦線の公道上のどこかにいるだろうから,かれらの方からそれを目印にして話しにやって来るさ,といった意味の応答をして,元気に立ち去っていったのでした。  」

          「  このような異常な環境のなかにあって筆者たちの取材チームはM,N両少尉の談話を聞くことができたのです。両少尉は,その後三,四回われわれのところ(それはほとんど毎日前進していて位置が変っていましたが)に現われてかれらの『コンテスト』の経過を告げていきました。その日時と場所がどうであったかは,いま筆者の記憶からほとんど消えていますが,たしか,丹陽をはなれて少し前進したころに一度,麒麟門の附近で一度か二度,紫金山麓孫文陵前の公道あたりで一度か二度,両少尉の訪問を受けたように記憶しています。

            両少尉はあるときは一人で,あるときは二人で元気にやって来ました。そして担当の戦局が忙がしいとみえて,必要な談話が終るとあまり雑談をすることもなく,あたふたとかれらの戦線の方へ帰っていきました。古い毎日新聞を見ると,その時の場所と月日が記載されていますが,それはあまり正確ではありません。なぜなら,当時の記事送稿の最優先の事項は戦局記事と戦局についての情報であって,その他のあまり緊急を要しない記事は二,三日程度『あっためておく』ことがあったからです。」

          「  すべての損害事件に加害者と被害者があることはいうまでもありませんが,それなら,その事件の存在そのものに疑問を抱く人は,そのことを加害者と被害者の両方に質してみることは疑問を解く最も常識的かつ初歩的な手続きではないでしょうか。この点で三人組の方々は,加害者とみられる旧日本軍の関係者などの証言を提示して事件の不存在を主張していますが,それらの証言は明らかに加害者の利益関係人によるものであって,そのような証言の立証力はきわめて乏しいとされるのが今日の常識です。しかし,それはそうとしても,事件不存在の主張者が冷静,公平になすべきことはもうひとつあります。それはいうまでもなく被害者である中国またはいま台湾にある当時の中華民国の事件処理担当の責任者にそのことの存在か不存在かをたしかめてみることです。  」

          「  してみれば,こんにちの中国は,『南京大虐殺,百人斬り競争』のような事件がもし本当に不存在であったのなら,喜こんでそれを証明できる立場にあるのだし,反対にそれが存在していたとしても,その責任を下級将校や兵士−−M少尉やN少尉の−−責任とはしないという立場をとっていることは明白です。  」

          「  三人組の論述によれば,南京軍事法廷は当時の毎日新聞(東京日日新聞)の記事を重要な証拠として,興奮した大衆の怒号のなかであの判決を下したとあるのですが−−あるいはそのようなことがあったことを是認しておられるのですが−−,それならばあの裁判は事件そのものが不存在なのにその上にもうひとつの不当性をもっていたということになります。正常な裁判においては,「伝聞による新聞記事」は証拠としない,というのは国際的な法律常識です。そして,法廷に興奮した大衆を大量に入れ(あるいは入りこまれ),怒号を放置したまま(あるいは止むなくそうなったまま)審理,判決を行うというのは正常なまたは公正な裁判とはいえません。  」

          「  このことについて筆者の体験を参考までに記してみましょう。筆者は,敗戦直後の東京市ヶ谷で行われた連合国国際戦犯裁判に同事件の証人としてパーキンソン検事の事情聴取を受け,そして検事側証人として法廷に立ったことがあります。このとき,筆者の検事への陳述内容はすでに長文の文書にされて,あらかじめすべての判事,弁護人に配布されていたのですが,筆者が検事の請求によって陳述台に立ち,宣誓を終えるや否や,判事の一人から発言がありました。その趣旨は  『この証人の陳述は伝聞によるものであり,また,この証人の書いた新聞記事は伝聞によるものであるから,当裁判の証人,証拠とはなり得ない。よってこの証人を証人とすることを承認しない』というものでした。すると裁判長はこの発言をとりあげ,筆者は直ちに退廷を命じられたのでした。  」

          「  しかし,もし万一,それでもあの新聞記事が南京法廷の主要な証拠として"活用"されたということが真実であったとしたら,この点からみてもあの法廷の判決は不当なものであったと(三人組は)判断することができるのです。  」

          なお,浅海記者は,阿羅健一からの取材要請に対して,記憶不鮮明を理由に断り,その際,「この世紀の大虐殺事実を否定し,軍国主義への合唱,伴奏となるようなことのないよう切望します」という返事をした(甲36,91)。

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