No. | P. | 内容 | 撮影者 初出誌 |
東中野氏の否定根拠 | 画像 click |
否定根拠への疑問 | 検証記事リンク | 写真判定 |
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110 | 180 | 日本軍の放火? | 特派員 歴史写真 侵華日軍 ナンキン |
いずれにしても、写真110から112の説明がいうような市街地放火は、日本軍と断定できる証拠は何一つない。 むしろ中国軍が「一面火の海」とした放火のあとに燻る煙という可能性が限りなく高い |
■批判の対象になっているキャプションは、 「日本軍が南京の南門外大街で放火している情景」(侵華日軍南京大屠殺暴行照片集 昭和60年) 「日本軍、中華門付近の大街に放火」(ザ・レイプ・オブ・ナンキン 平成9年) 「建物の42%が放火によって消失し」(歴史の真実を語る足跡と証言 平成14年) です。 これが、1)首都南京を放棄した中国軍の清野作戦による火災なのか 2)日本軍の砲撃や空爆による火災なのか 3)南京陥落後の「残敵掃討作戦時」の日本兵による放火なのか これらを判断するには、この写真が撮られた日時と場所がわかれば良いはずです。 ■東中野さんの冒頭の記述を信じれば、写真のソースである『南京攻略戦写真帖』(昭和13年)には、「南京南門大街の火災」とあり、『ノースチャイナ・デイリーニュース』(昭和12年12月18日号)には「中山路の中国軍のバリケード」とありますから、「中山路から南京南門大街の火災をみた」ということになります。写真近景では、中国軍のバリケードを日本軍部隊が制圧しています。 ■東中野さんも写真から分かったことは精々これぐらいなのでしょう。この写真は城内なのか城外なのかも読者に明示していませんし、いつ撮影されたのかの考察も深めていません。本当に確証があれば、撮影の日時、場所など、図面くらい添えてもよいはずです。 ■にもかかわらず東中野さんは、『清野作戦で起きた大火が翌日以降に燻ったものだ』ということに関してだけは、明瞭です。水晶球でも使って68年前を透視したのでしょうか? 細い糸で類推したに過ぎないことが、ついには、『むしろ中国軍が「一面火の海」とした放火のあとに燻る煙という可能性が限りなく高い』との、断言になっています。こういうのを強弁(ムリ筋)というのでしょうね。 ■ともあれ、この写真を「日本兵による放火の煙」と断定するには無理があります。それだけだったら私も東中野さんに同調したのですが、「放火=清野作戦」という信仰的単一思考にまで、追随することはできません。 ■この写真がいつどこから撮影されたものか msq さんの考察をお読みください。 n/143"-110 ■なお msq さんによれば、東中野さんが本の前半34頁に書いている記事に疑問を呈す。 南京防衛軍は、12月6日から「日本軍の進撃を非常に遅らせ、犠牲を多くさせる」ため、清野作戦を展開し、北門(ユウ江門)近くの下関、東門(中山門)付近、南門(中華門)付近を焼き払っていた。この「南門(中華門)付近の火災」とは、この写真のことをいいのか? しかし、「南門(中華門)付近」とはまさにこの写真に家並みが写っている街のことではないのか? だとすれば、まだ焼き払われてはいない。焼き払われたのはこのあとだ?? ギョ!! もしかすると、こうした矛盾を解消するために「潜伏していた便衣兵が占領後の南京の街に火をつけた」といい始める人が現れるかもしれません。 |
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