南京事件143枚の写真の再検証(2)

『南京事件「証拠写真」を検証する』追加

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No. P. 内容 撮影者
初出誌
東中野氏による否定根拠 画像
click
否定根拠への疑問 検証記事へのリンク 写真判定

「16枚の写真帳」

16B 130 16枚の写真帳
(恥の写真帳)
 
16枚の写真帳 
「恥の写真帳」とは
『屠城血証』映画の主人公のモデルの羅瑾が逝去:江蘇ニュースネット 2005年02月17日
1937年12月、日本軍の南京占領時、羅瑾 は南京にある「華東写真館」で見習いをしていた。1938年1月のある日、1人の日本軍少尉が来て、2本の「120桜」フィルムを現像させた。
羅瑾は写真を洗ってさらした時に驚きのあまり呆然とした:その中の数枚は日本軍が中国人を切り殺す現場写真である!彼は胸のうちは怒りに振るえ数枚をこっそりと焼き増した。それ以後、彼はことのほか注意して、日本軍から届いたフィルムの中からこのような写真を30枚以上多くプリントし、自作のアルバムの中にまとめた。

心の怒りを表すため、羅瑾はアルバムの表紙の上に“血を垂らしたハート”と、右下の角に一振りの日本刀、“”と書いた。その後、極めて慎重に部屋の梁の上に隠した。

1940年、羅瑾は南京の毘庵寺の通信集訓隊にいた、日本兵の捜査から逃れるため、彼は便所の壁のレンガに穴を開けて、アルバムを押し込み、泥で塗り固めた。数日後に気がつく突然アルバムがなくなるなんてどうして予測できようか。予想外の出来事を防ぐため、羅瑾は南京から逃げて、福建の大田市で隠れて暮らした。

50年後、羅瑾はやっと知った、アルバムは別の1人の学生である呉旋 の手に渡っていたのである。呉旋はそのれを菩薩の台の下に隠し、後に抗日戦争に勝利するまで転々と多くの所で収蔵していた。南京軍事法廷が日本の戦犯を裁く時に、“京字第1号”の証拠として法廷に提出した。(翻訳:熊猫さん)
A1 130 16枚の写真帳
(恥の写真帳)
[恥]帳  
16枚の写真帳 

[東中野氏の検討]

1、戦後、所有者や提供者を明記し、「日本兵が撮影した」ことを暗示する「証拠写真」が出てくる。それらの凄惨な写真は、見るものに生々しく訴えかける。 しかし、いつ、どこで、誰が撮影したのかは、依然として不明である。

2、16枚の写真のソースは一人の日本兵から渡された2本の120タイプフィルムである。

3、映画「南京1937」(のビデオ?)で調べると、16枚の写真の大きさサイズがバラバラ。

4、日光写真では密着焼きだからいろいろなサイズの写真はできない。

5、2本のフィルムからこれだけのいろいろなサイズは作れない。

6、B氏の証言では、「日寇暴行実録」(1938)や「ライフ」(1938年1月10日)と同じ写真も混じっており、それらを国民党やライフに提供したという証言をA氏はしていない。

7、なぜ、「写真帳」の斬首写真と、「外人目撃中の日軍暴行」の写真が同じ背景なのか?

8、なぜ、南京裁判まで門外不出だった写真と同じ場所の写真が、1938年に本に載ったのか?

9、日中戦争の真っ只中に、交戦中の敵国の宣伝本のために門外不出の写真を提供することなど不可能である。

10、こう考えてくると、一連の写真は中国側が中国軍の実際のようすを撮るか、また演出された場面を撮ったと考えた方が合点がいく。  
[東中野氏への返答]

東中野氏はこの重要資料を検討するさいに、手に入れやすい劇映画『南京1937』のビデオを用いている。我々素人ならばともかく、事実と証言の真偽を確かめるのに、劇映画のビデオでお茶を濁す「学問的態度」には、唖然とするしかない。

『16枚の写真帳』の現物は残っているのだし、羅瑾氏も呉旋氏も良く知られた人で匿名にする必要もない。誠実な調査ならインタビューに答えてくれたはずである。

A1.「日本兵が撮影した」ことは暗示ではなく事実である。複数のカメラが撮影していた斬首

A2.16枚の写真のソースは、最初が2本の120タイプフィルムであって、その後のフィルムを含めれば、もっと多くなる。仮に2本からだとしてもトリミングでさまざまなサイズを作ることは可能だ。イーゼルマスクによる耳(白い縁取り)も付いている。

A3.映画以外にもっとキチンとした調査はできないのか?

A4.本人用は暗室でプリントした(p151)のだから、日光写真論は無関係もしくは目くらまし。

A5.2本のフィルムからとはいえない。

A6.写真帳現物でみる16枚の写真と、1938年の「日寇暴行実録」や「ライフ」掲載写真に同一のものはない。つまり、羅瑾氏は「日寇暴行実録」や「ライフ」には送っていないとかんがえるのが妥当だ。

しかしながら、ネガは発注者に返却したのだから、同じ写真が別のところで掲載されたとしてもなんら不思議は無い。

『南京大虐殺の現場へ』(1988/12刊)の取材時、拾得者である呉旋氏の記憶は16枚のうち7枚に付いてであった。呉旋氏は終戦前の4年間写真帳を秘匿していたが、長らく時間がたって記憶がアイマイになったとしても不思議は無い。評判になっている別の写真と混同することもありうる。

中国では残虐写真を充分な考証無しに「羅瑾写真帳」の一部とする傾向が無いとはいえず、東中野氏はそうした空隙をついている。

A7.「写真帳」の斬首写真と「外人目撃中の日軍暴行」の写真が同じ背景なのは、複数の兵士カメラマンが撮影し流出したからである。

A8.別の兵士が写した写真が、別ルートで流出した。別ルートとは南京→上海→漢口である。 検証161-167

A9.「交戦中の敵国の宣伝本のために門外不出の写真を提供」。日本軍兵士が直接提供したわけではない。上海の写真館は、残虐写真、陵辱写真をブロマイドとして売って商売をしていた。それを手に入れるのは比較的容易だったと思われる。問答有用34040

A10.「中国側が中国軍の実際のようすを撮るか、また演出された場面を撮ったと考えた方が合点がいく。」それならば、そうした推理の根拠を最初から示せばよい。
思考錯誤

"検証" を検証 
"n/143-65-80"
 
B1 131 16枚の内容  [恥]帳  16枚の写真帳    
[16枚の内訳]
女性陵辱?(1)、野外尋問(1)、緊縛(3)、斬首(6)、水路の死体(1)、死体の山(1)、南京駅占領宣言(1)、明瞭写真が無いため内容不明(2) 
   
65 131   (日本兵)
[恥]帳 
(検討せず)   
  
 
女性を抱きかかえて接吻を迫っているところを、こっそり撮影したようにも見える 
このような写真を検討せず無視するところに、東中野教授のご都合主義が如実に顕れている。
羅瑾氏が写真帳の表紙に「恥」という字をあしらったのは、この写真が中国人にとっての恥辱であり、日本軍人の恥ずべき蛮行という意味も込められているのかもしれない。
"n/143-65-80"影

検証271

検証72

 
 
66 131
136
  (日本兵)
[恥]帳 
影の計測。12月から2月の南京ではありえない。  
  
 
季節は春以降かもしれない。16枚の写真の季節範囲は広いかもしれない。ただ、そんなことより、この城壁は場所を特定できる手がかりではあるまいか?
 
67 131   (日本兵)
[恥]帳 
(検討せず)  
 
  
東中野教授はこの写真に関しては何の検討もしていません。読者の中には、このような写真ならいくらでも演出できる、と思う人がいるかもしれません。しかし、私はそうは思いません。理由は、この写真帳の由来と、収録写真16枚の写真としてのリアリティです。  
68 131   (日本兵)
[恥]帳 
軍服のポケットが、日本軍の軍服よりやや下に位置している。  
 
  
これも長いこと典型的な合成写真だといっていたのに、どうしたことでしょう?
こちらの大御所サイト(「南京大虐殺はウソだ!」)のこの写真。
《左右の色が違う合成写真》だそうです”写真3-6も合成写真で、左右別々に撮られ合成しています。簡単なトリックですよ。だって左右の色が違うでしょ。 それを隠すために壁を使っていますけど光はごまかせませんね。”

・・・この説明のトリックが分かりますか? 真中の線とごまかせない光線の違いは、たぶん本を見開いた時の左右の頁だからでした(笑)。それに、昭和12年のカラー写真ということですから凄い!!

この余りにもがさつな「合成写真説」でも半年か1年は善良な少年達を騙すことができると睨んでか、否定派のバイブル的なWEBサイトでは、未だに訂正がありません。

※ 05/11/22に気づいたのですが、http://www.geocities.com/TheTropics/Paradise/8783/lie.html#03では、フィルターをかけて写真の色が全体的に変えられてしまいました。

しかし単行本では余りにも恥ずかしいのか、写真上の壁は1枚に変わっています。WEBサイト管理者との打ち合わせはないのかな?

そして今度は、読者には判断材料がない服装問題でまやかしてきました。ここまで来ると騙しのテクニックの博覧会ですね(笑)。「この写真はウソだ」という理由がクルクル変わる!!

昭和12年、13年の頃の中国派遣日本陸軍の軍装は、旧型と新型が入り乱れ統一が取れていないのが実情でした。そんなわけで、「ポケットの位置が変」とか「軍帽が変」とか疑問符はいくらでもつけられるのです。 このスレッドをゆっくりご覧ください。

当該写真のポケットの位置に付いては、「こういうのは「検証」ではなくて、「催眠商法」と呼ぶべきものと思います。」と極評されています。(この掲示板では、写真はクリックすると拡大します)
 
69 131   (日本兵)
[恥]帳 
(検討せず)  
  
東中野教授はこの写真に関しても何の検討もしていません。読者の中には、このような写真ならいくらでも演出できる、と思う人がいるかもしれません。しかし、私はそうは思いません。理由は、この写真帳の由来と、収録写真16枚の写真としてのリアリティです。   
EXc 138 斬首 (日本兵)
ナンキン
[恥]帳にはない 
影の検討のため、ザ・レイプ・オブ・ナンキンから引用、挿入。冬ではない。
なお、この兵士の軍靴は日本軍のものではないようだ
 
  
冬でないかもしれないが、この計測方法は誤差が大きい(笑)
地下足袋が日本兵の必携品だったようですが・・・検証[424-438]
 
70 131 斬首 (日本兵)
[恥]帳
(場所の同一性検討はあっても、内容検討は無し)  
  
どう見ても、これらの写真は"演技"でも"やらせ"でもありません。

  どの写真も首が刎ねられる瞬間をねらったもの。ポーズ写真だったp.86の写真6とは、そこが違う。

  写真72などは血しぶきが写っている。モノクロ写真ではわかりずらいが、カラー写真だったらかなり凄惨な情景だ。ここに集まった百名を超える兵士達は、赤い血を見て興奮しているに違いない。もちろんカメラマンも。

  写真74写真75には、3人のカメラマンが写っている(南京大虐殺と「証拠写真」より)。これらの写真を写した人物を含めると、カメラマンは最低4人以上いたということになる。

  東中野氏は、写真帳の6枚、すなわち写真70、71、72、73、74、75のほか、写真14、15、EX-C を併せた9枚が、同じ日の同じ場所での公開据え物斬り斬首大会の写真だといっている。私もそれに同意します。

  撮影者が一人で、1枚の写真はどこまでも1枚だ、という根拠の無い東中野流の縛りを解いて考えれば、さまざまなルートで写真が流布したことに、何の不思議も無い。

  カメラマンが4名以上いたならば、羅瑾氏が勤務する南京の写真館以外に、上海の写真館にもフィルム現像が依頼され、そこから漢口へ写真が流出したというLook誌の記事とも辻褄が合う。検証161、167

  やがて、残虐写真の流出とその利敵作用に気が付いた中支派遣軍上層部は、撮影禁止令を発したのである。1938年10月24日付「軍人軍属寫眞撮影製作取締規定」のこと。

※追記
そもそも、日本兵士が戦場でカメラを持つようになったのは、上海事変が終ったらさっさと日本に帰れると思った兵士達が、免税で3分の1の金額で買える外国製高級カメラに群がり、日本へのみやげ物として手に入れたからであったそうだ。
 
71 131   (日本兵)
[恥]帳 
(場所の同一性検討はあっても、内容検討は無し)  
  
 
72 131 斬首 (日本兵)
[恥]帳 
(場所の同一性検討はあっても、内容検討は無し)  
 

  
 
73 131 斬首 (日本兵)
[恥]帳 
(場所の同一性検討はあっても、内容検討は無し)  
 
  
 
74 131 斬首 (日本兵)
[恥]帳 
(場所の同一性検討はあっても、内容検討は無し)  
 
  
 
75 131 斬首 (日本兵)
[恥]帳 
(場所の同一性検討はあっても、内容検討は無し)  
 
  
 
76 131
142
  (日本兵)
[恥]帳 
死体の上のほうに生きた2人がいる(『称没見過的歴史照片』)。
『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』では隠している。
 
  
 
東中野さんは、写真に対して資料批判をしているのではなくて、「ザ・レイプ・オブ・ナンキン」という特定の本を批判しているようです。的外れです。

中国の公式サイトには、生きている人物も写っている、トリミングされていない写真が載っています。

「死体の上のほうに生きた2人がいる」

この写真のことではありませんが、水路に死体を放り込んだがまだ生きていた中国兵が顔をあげた、という似たような情景描写なら、日本兵の従軍日記にありましたよ。

東中野さんは「皆殺しではない」と弁護したいのでしょうか?意図不明です。
   
77 131 何の写真でしょう?
なんと、大量の殺害死体でした。
(日本兵)
[恥]帳
侵華日軍
国際救援
写真77は不鮮明なので、『侵華日軍南京大屠殺暴行照片集』で見ると、手前に多くの死体らしきものが見え、遠くに馬一頭と兵士が見える。

これが昭和22年の南京裁判に証拠として提出されたというのであれば、その後に大いに使われてよかったはずだが、どうして1980年代まで出てこなかったのであろうか。(P.142)
何の写真でしょう? 

クリックすると明瞭な拡大写真になります。
何がどのように写っているのか目を背けることなく見つめてください。

 
 

東中野氏は、誰の目にも内容があきらかなこの写真を、読者の目から隠した上で、狡猾にも、左のような文章をしたためています。


私には激しい憤りを抑えることができません。

氏はあたかも、もともと写真が不明瞭であるかのように言い、不明瞭であるから本に掲載しなかったように説明しています。それはとんでもない欺瞞です。明瞭な写真は存在しているのですから。

ここに提示した写真は熊猫さん提供、『南京大屠殺与国際救援図集』に「侵略した日本軍が虐殺した中国難民の死体の山」とあるものです。後ろ手に縛られたままの犠牲者も3体ほど確認できます。戦闘ではなく大量に殺害されたことがわかります。

東中野教授はこの犠牲者の姿を見て何を感じたのでしょうか?鉄面皮にも、何の感情も呼び起こさなかったのでしょうか?

このような写真をキチンと検証せず、どうして「『証拠写真』を検証する」という書名が成り立つのでしょうか?

この写真の取り扱いを見て、私の疑いは一気に深くなりました。東中野教授の詐術は、「無申告で隠ぺいする」といった単純なものではなく、「申告して隠ぺいする」という知能犯であるのではないか。

読者がこの写真をみたら、誰もが悲痛な叫びをあげるでしょう。『教授』はそれを知っているが故に隠したと思われます。

大宣伝された本の記述です。ここに現れた不誠実は東中野教授ひとりのことではなく、否定派全体のモラルの問題です。
検証138

検証143

検証171
 
 
78 131 南京駅占領宣言  (日本兵)
[恥]帳 
東中野氏はこの写真も、検討を回避しています。(完全スルー)     
南京のどこの駅かこの本の写真からは読み取れませんが、いずれかの駅に貼られた国民政府側の告知文の上から、
十二月十三日午前十時、小池部隊、林隊占領、客車八輪、汽関車三輪
と占領日本軍部隊が大書したものです。写真帳の写真の撮影地が南京(または行軍過程)であることと、撮影者の所属部隊とを示しています。

もちろん16枚の写真が、一人のカメラマンではなく複数のカメラマンの撮影によるものであり、また撮影期間も数ヶ月であったことは、羅瑾氏の証言からも窺われます。この写真は、現像依頼者のなかに、十二月十三日午前十時、すなわち南京城攻略の日に南京にいた兵士(または軍属)が確かに居た、という証拠です。

東中野教授!こうした「味方に不利な証拠」を隠すのはプロパガンダの基本でしたね。(東中野さんは情報将校でしたっけ?)  
検証52
 
 
79 131 何の写真でしょう? (日本兵)
[恥]帳 
(検討せず)  
何の写真でしょう?  
(写真内容不明)東中野教授がスルーしているだけに重要な意味をもった写真のような気もしてきます?どなたか中国へ行く機会に確認をお願いします。     
80 131 何の写真でしょう? (日本兵)
[恥]帳 
(検討せず)  
何の写真でしょう?  
(写真内容不明)東中野教授がスルーしているだけに重要な意味をもった写真のような気もしてきます?どなたか中国へ行く機会に確認をお願いします。    

秘蔵されていた「マリオン・フィッチ提供」写真「秘蔵」という表現は東中野教授の『贋造』みたいです

F-1 144 『日寇暴行実録』や『外人目撃中之日軍暴行』にも載っているフィッチ・コレクション (日本兵)
(Fi)
50年間も門外不出であったのであれば、それが昭和13年に出た『日寇暴行実録』と『外人目撃中の日軍暴行』に掲載されるはずもないからである。     
■東中野氏はこれらを「第1期にも使われていたフィッチ写真」とし、その他をあたかも「ザ・レイプ・オブ・ナンキン」で初出であるかのように思わせていますが、決してそのようなことはありますせん。『日寇暴行実録』や『外人目撃中之日軍暴行』になくても、当時のLife、Look、China Weekly Reviewなどで公表されたものもあります。

例えば、Look 1938年11月22日号
China Weekly Review,1938年10月22日号
など。

■50年も外に出なかったのは、フィッチ所蔵の「プリント」であって、同じ写真の別のプリントは、別ルートでいくらでも公表されています。写真館で現像され複数プリントされたものの一部がフィッチの元に集まったにすぎません。「プリント」の一つであったことは、
対日賠償要求同胞会のニューヨーク・タイムズの広告に載った写真が、ちょうどその中の一枚であったので、彼らもその当時の記憶を喚起できたという。
の一文からもわかります。「あ!私の家にも同じ写真があるわ!」ということですから。

つまり、「紀念南京大屠殺受難同胞聯合会」が載せた新聞広告をきっかけに、フィッチ家から連絡が入り、アイリスチャンが「同胞聯合会」を通じて、フィッチ所蔵「プリント」を知るに至ったということでしょう。

■「秘蔵」「門外不出」という言葉のトリック
 東中野氏は p143〜p147にかけて「秘蔵」「門外不出」という言葉を連発しています。「大切に保存して流失を避けた」ということを、わざと「秘蔵」「門外不出」と、違う意味にずらしているのです。

 そもそも「門外不出」の意味は【貴重な芸術品などで、めったに他人に見せたり貸したりせず秘蔵すること。また、その物。「―の古文書」[大辞泉]】です。

 南京での虐殺行為をアメリカ市民に知ってもらうために、写真を持ち帰ったというフィッチ一家の目的は、秘密めかした「秘蔵」とか「門外不出」とは全く逆のものです。英語の原文資料を取り寄せれば、言葉のトリックは直ぐに明らかになることでしょう。

(実際問題、本に引用された文章には「秘蔵」も「門外不出」もありませんよ)
"n/143-fitch"    
F-2 145 その他のフィッチ・コレクション (日本兵)
(Fi)
「中国で宣教師をしているときに撮った50枚の写真」といっておきながら「タッカー撮影」の写真が無い

日本兵撮影の根拠は?
写真店主の名は?
流通経路があやふや
写真保存の動機は?など。
   

■「タッカー氏撮影」への疑問は、単純な誤訳の問題ではないでしょうか。

東中野氏は、『南京大虐殺 日本人への告発』(東方出版、1992年)から文章を引用していますが、この文章自体が紀念南京大屠殺受難同胞聯合会」の英文を翻訳したものだと思われます。そう考えると、英文和訳のよくある間違いだということが、直ぐに分かります。

「彼女の叔父のタッカーは、中国で宣教師をしている時に撮った五十枚余りの写真を彼女に預けて保存させたが、その中の約三十枚が見るに忍びない日本軍の暴虐行為を撮ったものである。」

この撮ったは、誰が撮ったのでしょうか?

原文には果たして、"photographs taken by himself" と書いてあったでしょうか? "by himself"がなければ、「中国で宣教師をしている時代に撮られた五十枚余りの写真」と翻訳すべきものだったと思われます。英文解釈で良く減点される事例です。

"by himself"がなければ、誰が撮ったかは何も指定していないのですから、後半の「これの元は日本兵の手によって撮影されたものである」という文章内容と何の矛盾もありません。

こんな些細な言葉の行き違いまで、フレームアップに利用してしまう東中野教授のトリック才能には、脱帽してしまいます。

■写真の流通経路があやふやなのは、日本軍の占領下で日本軍の目を盗んで配布されたのですから、当然のことです。いろんな残虐写真が闇のルートで外国人に流れていた、と考えれば何の不思議もありません。

■また、60年もたってマリオンフィッチ氏が写真の保有者として名前を明らかにしたことを、東中野氏は、なにか複雑怪奇なことのように言い募っています。なぜそんな記述の仕方をするのでしょうか?

マリオンフィッチ氏はジョージ・フィッチ牧師の長女です。ジョージ・フィッチ牧師といえば、当時南京に滞在しマギー牧師撮影のフィルムを米国に持ち帰った歴史上のキーマンです。そうした由来を、ザ・レイプ・オブ・ナンキンの著者が詳しく紹介するのは当然です。

P143からの5ページにもわたる記述は、「ためにする言いがかり」としか思えないのですが、皆さんはいかがでしょうか?
    
82 145
151
  (日本兵)
(Fi)
Look3811
写真82、85、90は同じ場所。
カメラマンがうろうろできたのが不思議だ。
写真82、89、90では同じ人物が
被害者になったり加害者になったり
   ⇒東中野氏は、新聞社のカメラマンがウロウロしたかのように書いているが、そうではなく日本兵がカメラマンならば、ウロウロできるのです。

⇒写真89の人物が写真82、90の人物に「似ている」だけで「同一人物」だというのは滑稽です。

Look誌 Nov.22, 1938 page55 での写真のキャプションは、
大きな少年は電話線を踏んづけたという理由で処刑された。 しかし、小さな少年の命はとらなかった。食糧の節約のた めに、刑場で多くの捕虜が処刑された。日本人の顔も中国 人の顔も西洋人を驚かす冷静さである。
です。このLook誌には、銃剣刺突、斬首、生埋めの写真も同時掲載されていますが、これら写真の由来についても説明されています。 KILLING FOR FUN! ファーマー氏の手紙
   
81 145
151
  (日本兵)
(Fi)
写真82の左から2人目と同じ人物    
■登場人物が重複したり、これらの写真に "演出" の匂いがする、ということは、私も強く感じます。東中野教授はそれをもって、「中国工作隊」の捏造写真ということを匂わせます。

■しかし、世の中には"演出" の強い匂いがする凌辱写真、虐待写真というものがあります。このページにある「斬首」写真は、斬首の現場写真ではなく、模擬斬首を写真に撮ることによる「虐待」かもしれません。
アブグレイブ刑務所での虐待写真と対比してみてください。
アブグレイブ刑務所での虐待
アブグレイブ刑務所での虐待
アブグレイブ刑務所での虐待
アブグレイブ刑務所での虐待
イラク・アブ・グレイブ刑務所での虐待写真

■倒錯した欲望と、征服したものへの優越感、そして刀をふりかざしたヒロイズム。これらが結びついたものが、「殺人を毎日の任務」とする戦地で沸騰し、虐待を軍規で抑制できなかったとしても、不思議はありません。

■こうしたエキセントリックな将兵ほど、褒め称えるべき『良く闘う』愛国者だったわけですから。
  "n/143"-81〜94  
85 145
151
  (日本兵)
(Fi)
     
86 145 斬首  (日本兵)
(Fi)
ゲートルが整然と巻かれていない   
87 145   (日本兵)
(Fi)
82の登場人物と同じ  据えもの斬り87   
90 146
151
  (日本兵)
(Fi)
     
89 146
151
ワインの肴に心臓をえぐりだした  (日本兵)
(Fi)
そんな惨酷なことを日本兵はしただろうか?したとしても。写真に顔をだしただろうか?     
■顔が似ているから "同一人物" といいだしたらキリがありません。
写真89の帽垂れについて→検証[283]  
83 145 日本兵が僧侶を銃殺 (日本兵)
(Fi)
   
■私は想う。このピストルをかざして得意顔の日本兵とそれを撮影して喜ぶカメラを持つ同僚兵。彼らは、犬をけしかけてポーズをとるアブグレイブの米兵士たちと、全く同じ精神の構図。
イラク・アブ・グレイブ刑務所での虐待写真

■なおネット上には、まことしやかに、
阿弥陀に軍帽をかぶった日本兵、腰の箱は一体何か?
などと言う人がいますが・・その答えもWEB上にありました。
お腰につけたものは何?
"n/143"-81〜94  
84 145
148
  日本人
CRW3810
(Fi)
1、南京雨花台ではない
2、襟が折襟である
雨花台虐殺拠点
雨花台虐殺拠点 
 
The China Weekly Review 1938年10月22日 によれば、日本将校が殺戮された中国市民を検分している。場所は蘇州。

■なお、90式鉄帽の下に戦闘帽を被り、 服は98式軍衣に昭5式軍衣の階級証を付けた折衷型 1938年の中国戦線における典型的な日本陸軍将校の 服装。

■将校の左肩から右腰にかけて、肩ベルトが写っています。 拳銃の入れ物は見えませんが、バックルの位置からは軍制式の 94式拳銃嚢に見えます。 左腰には”武人の魂”である軍刀が下がってますので、補助武器の拳銃は右に追いやられるのです。(ja2047さん掲示板投稿
"n/143"-81〜94  
88 145   一億人
(Fi)
フィッチ提供で間違いないか?

毎日新聞特派員撮影ではないか?

略奪は日本軍によるのか?
   
■この写真に付いて詳細な検討を加えた、msqさんは次のように指摘しています
史詠氏ほかの写真集の Courtesy of Marion Fitch (=マリオン・フィッチ提供)とクレジットされた写真、21枚の内の1枚の
写真88(中山路。毎日のおそらく佐藤カメラマン撮影)は、
明らかにクレジットが間違っています。

これは『中国抗日戦争図誌・中巻』(1994年、p380)からの転載です。本来 Couretesy of Pictorial History of Sino-Japanese War とするところを間違えたと思われます。

史詠本の校正段階のミスを、教授がとぼけて利用したのでしょう。
■msqさんによる詳しい考察をご覧ください。
写真81〜94 マリオン=フィッチ所蔵の写真より
史詠ほか『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』の考察(3/3)その◆写真88

■『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』の説明文はややオーバーランでしょう。
日本軍が突入し略奪した後の、かつての繁華街の中山路。
The once prosperous commercial street Zhong Shan Road after being stormed and looting by Japanese troops.(p193)
■日本軍による略奪の跡かどうかは、写真からはわかりません。撮影日時がはっきりすれば別ですが。

しかし、中国兵が軍服から平服に着替えて逃げようとしたり、一二月一二日から一三日にかけての夜に中国兵や一般人が食糧品店に押し入ったという目撃談はありますが、この写真がその跡であるという根拠はありません。

《参考資料》スミス記者の講演:ここでは、逃げる中国兵などによる略奪と、攻める日本兵が分隊ごとに行動する "組織的" 略奪の、攻略前と攻略後双方の目撃が語られています。
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91
92
93
94
146   (Fi) ポーズのつけ過ぎなど     "n/143"-81〜94    
95 153 晒し首 Life3801
昭和13年1月10日号
一読したところ、読者に「日本軍の仕業」と受け止めさせるような写真説明ではあるが、首を斬り、それをバリケード上に置いたのが誰か、写真を撮影したのが誰か、その確証は何一つ無かった。したがって、この写真はそれ以来登場しなくなっていた。     
■私が注目するのは、初出誌の発行日です。Life誌の1月10日号に

「徹底的な反日家であった中国人の首が、南京陥落直前の12月14日(ママ)、南京郊外の鉄条網のバリケードにくさびで打ちつけられた。その首は、凍るような天候の中で良好な痛みのない状態で、南京の方に顔を向けられていた」

というキャプションがつけられたとすれば、驚くべきことです。 素直に読めば、極めて迅速なる写真の掲載です。

■従って、羅瑾氏の「16枚の写真帳」のように、日本兵が現像依頼した写真のコピーが写真館から流出したというよりも、上海経由で直接、Life誌に写真が特別スクープとして持ち込まれた、と考えるのが妥当です。

もちろん、東中野氏がそれとなく誘導しているように、南京攻略の遥か以前の「満州馬賊などによるさらし首の写真だろう」を、完全に否定することはできません。

しかし、東中野氏が続くページで紹介している「満州馬賊などによるさらし首の写真」は皆、『みやげもの残虐写真』として絵はがきになっていたり、雑誌に掲載されたりしているのです。それに対してこの写真はそういうことが報告されていません。

■私は、これほどインパクトの強い写真が、出所として Life誌に限られていることこそが、信憑性を高めていると思います。

■「写真を撮影したのが誰か、その確証は何一つ無かった。したがって、この写真はそれ以来登場しなくなっていた。」は、東中野氏の単なる主観か印象操作にすぎません。1975年に『LIFE AT WAR』でこの写真が再発表され、話題になったのでその後、日本の出版物にも登場するようになったと考えて、少しも無理はありません。

■匿名人によるタレコミ写真であることは確かなようです。それ以外には、このような写真がLifeに掲載される可能性は考えられません。心の奥底が「反日平和」でありながら面従腹背。それを隠して写真を撮り匿名でLifeに投稿した人士とは、一体どのような人物なのでしょうか?

日本人かも知れず、中国人かも知れず。まさしく謎の『大作戦』ですね。
"n/143-95"  
96 155 晒し首  別冊歴史       
■この朝日新聞禍筆事件は、残虐写真が兵士たちの"みやげもの"となっていたことを如実に物語っています。"みやげもの"には、中支派遣軍兵士が撮った"その時"の写真とともに、支那事変以前の"、昔の"残虐写真も混じっていたようです。しかし兵士たちは"南京の最新写真"というセールストークに乗せられて買ってしまったようです。

■なにしろ、三笠宮までにも知れ渡った軍規の荒廃です。残虐写真をニセモノだと鑑定する能力は一兵士にはありません。これを発掘した朝日の支局記者もそうした知識がないかったのでしょう。戦友会に睨まれて「ニセ写真」として糾弾されてしまいました。

■なおこの写真を遺品として残した兵士の「日誌」は本物でした。糾弾にあたった都城歩兵連隊の戦友会は、にせもの呼ばわりをして、無関係な未亡人一人を追い込んでしまいました。さらにその後この日記が「宇和田弥一」という自分たちの戦友のもので、1978年に連隊史を編纂したさい遺族から肝心の日記を借用して引用していたことに気が付いたのです!(秦 郁彦「昭和史の謎を追う」に詳しい)都城二十三連隊騒動の顛末

■残虐写真の流出と「みやげもの」事情→日本軍の残虐・暴行写真 (2)写真の撮影者・流出ルート

■日本人も中国人も西洋人も、軍事支配者は惨酷刑罰がお好き!検証:南京事件 日中戦争の残虐行為・テロ・処刑 (鳥飼行博)(かなり重いページなので覚悟してクリックしてください)  
"n/143"-96   
97 158 児童の虐殺 侵華8年

記念館
一方で南京での児童虐殺として使われもう一方で、「土匪のために殺された鮮人の幼児」として使われている  児童の虐殺    
「土匪のために殺された鮮人の幼児」このような日本語のキャプションを焼きこむのは、満州の惨酷みやげ写真でしょうか? それが南京で流用されていたのですね。これは確かに流用です。 
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98 159 重慶爆撃  TimeLife 「ザ・レイプ・オブ・ナンキン」に掲載されたこの写真は一般市民を手当たりしだいに虐殺したかのような写真である 重慶爆撃    
■う〜ん。「一般市民を手当たりしだいに虐殺したかのような写真である。」確かに写真は、説明を要するも無くそう見えます。肌蹴た衣服が悲惨さをいっそうかきたてます。でも、それは不当なことではなく、ウソではない事実です。

■また、ザ・レイプ・オブ・ナンキンの「1941年6月28日、中国の戦時首都であった重慶で日本軍の爆撃の犠牲者となった一般市民」というキャプションも間違いではありません。確かに、爆死であるか圧死であるかの差はありますけど、多くの市民が、軍事施設ではない都市に対する戦略爆撃の、犠牲になったことに変わりはありません。

■『直接の爆撃被害ではない』と偉そうに戦争賛美者が胸を張るのもいかがかと思います。正確に言い直せば、「市民を無差別に殺戮し厭戦気分を引き起こすために行った激しい空爆。敵機再来の警報によって起こったパニックで4千人の市民が圧死し犠牲となった。戦略爆撃の効果はこのような2次的影響としてあらわれた。」となります。

■東中野修道さん、高橋史朗さん、重慶爆撃とは、人間を殺さない爆撃だったのですか? (日本爆撃機を平和の使徒として歓迎する重慶市民の写真でも載せない限り、この御二人は満足しないでしょう)

■お二人の先生が神経をピリピリさせているのは、重慶爆撃が「戦略爆撃」のはしりであることを、余り知られたくないからです。
日本軍の重慶爆撃は「戦略爆撃」なる名称を公式に掲げて実施された最初の意図的・組織的・継続的な空襲作戦であった。ドイツ空軍のゲルニカ攻撃より約1年遅れはしたが、1日限りではなく三年間に218次の攻撃回数を記録した。空襲による直接の死者だけで中国側集計によれば1万1885人にのぼる。 『戦略爆撃の思想』
戦略爆撃『ウィキペディア(Wikipedia)』
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99 161 銃剣刺突  (日本兵)
Daily3709
LIFE3710
昭和12年では折襟の軍服を着ている筈はなかったから、写真の兵士が日本兵でないことは明らかだ。  ライフ 
銃剣刺突  
 
東中野氏は・・昭和12年(1937)年秋にAP通信社が「日本人の支那人虐殺」と題して配信した写真の1枚で、同年9月30日付で「デーリー・ミラー」紙が載せた写真と同一のようである・・と記していますが、LIFE October 11,1937とCWR November 6, 1937に、写真99と写真Kが掲載されていることが分かっています。以下日本軍の残虐・暴行写真 (1)写真の出現した時期より
LIFEの写真説明によれば、APのカメラマンによって 9月5日に天津で撮影された。 CWRの写真説明によれば、CWR掲載の写真は、10月3日付 Chicago Tribune からの複製。

CWR解説記事によれば、APの編集長 Edward Stanley は、この写真はAPの在中国カメラマンが撮影した正真のものと述べ、この写真が日本人カメラマンによって撮影されAPにフィルムが売り込まれたという上海での噂を否定した。

また、Editor and Publisher 10月2日号の報道では、the Chinese Section of General Staff の高橋担大佐(Lieut.-Col. Tan Takahashi)が、ドイツへの途上、米国で、これは中国人が日本軍の軍服を着たものだと主張した。(CWR p.224)
兵装はあきらかに昭和12年の日本兵のものといえます。
日本兵の服装・装備は偽造か?
「軍服に日本軍の縦長の階級証が付いていないからニセモノ」という推測がなされています。

わざわざ拡大写真まで付けて、これを証明している、という形を取っているのですが、この写真の肩口のところには明らかに太い暗色の線が認められます。普通に写真を読めば、これは「階級証が写っている」と見るべきでしょう。

引用した写真はLIFE 1937年10月11日号に掲載された写真と、日本側撮影の写真を比較したものですが、左側は、1938年、5月23日 徐州入城時の写真です、階級証が明瞭に写っているのと、ついでに隣に昭5式軍衣を開襟で着用して「タオル巻」した実例が出ているので引用しました。 ご覧の通り、左写真の明らかに階級証であるものと、右写真の肩口の暗色の線が、別のものであると断定するのは困難であると思います。
ただしこの投稿では、写真99とKの真贋については保留されていました。兵士の服の白さについて、裏づけがとれない、という理由からでした。

検証16

検証[19-22]

検証[30] 
 
99K 164 フェンシング?  (日本兵)
LIFE3710
兵士の構えがフェンシングのようで日本刀の構えを為していない。
こうした写真は1919年頃から使われているのと同一のものである
 
短剣術の教練  
日本刀ではなくて、鞘から抜かれた銃剣のようです。→片手短剣術

立派に形ができています。→片手剣の練習

問題は、捕虜を相手にこのような訓練を、本当にやったのかどうか、ということです。

保留されていた服の白さの謎も解けました→検証[413-22]

このように、東中野さんらの<思いつき検証>は、実証趣味オジサンたちの簡単な調査によって、次から次へと木っ端微塵に粉砕されていきます。
検証68

問答[30424]
 
100 165 3人の殺人競争者  (日本兵)
抗戦画史
殺人競争者が事実であったら、南京裁判で死刑になったはず 3人の殺人競争者    
  刀を磨いて恍惚になっただけでは死刑になりませんね。でも、中国人がこういう姿を見たら、殺人競争者め!!と言いたくなっちゃうんでしょうね。近代戦の戦闘では使わない刀はどういうときに使うのでしょうか?? 刀剣愛好会でしょうか??
   
101 166 斬首の瞬間  (日本兵)
写真集
南京
1、刀を切り込む際には、右足が前に出るはず。
2、カメラが近づきすぎてあぶない。
3、腕の縛り方がおかしい。
4、斬ったあと体が倒れないのは青龍刀で斬ったときと似ている。
5、草が繁茂して夏である。
・・・だから 
斬首の瞬間    
だから?

首は実際には切れていないのですか?
写真をクリックして大きくして見てください。
写真に写っているのは日本刀ではなく青龍刀ですか?

東中野先生!!
青龍刀で斬ったというなら、日本刀にすりかえたという証拠とか写真合成の痕跡、あるいは考えられる方法を示してください。それを調べない検討って一体何ですか? 3年間も何をしていたのですか?
   
102 168 惨無人道的殺人手段  (日本兵)
写真集
ナンキン
写真に写っている男性は、軍装、鉄兜、長靴の形状、ネッカチーフなど日本軍兵士にしては不可解な様相である。 まず襟が日本軍の詰め襟ではない。左腰に刀の鞘がない。右腰のベルトに固定されているはずの水筒がベルトの上に位置している 惨無人道的殺人手段    

■東中野さんは読者には試し様がないこととなると、自信をもって断言します。この場合はどうでしょうか?
生首を持とうとして持てなかった経験でもあるのでしょうか?妙です。自信は何処から来るのでしょうか?

■でも、また、しかし、
東中野さんらの<思いつき検証>は、実証趣味オジサンの簡単な調査によって、またまた、たちどころに、木っ端微塵となりました。
http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=one;no=16;;id=imgbord#16

1、軍衣
昭5式軍衣以外のものには見えません。 「襟が日本軍の詰め襟ではない。」と書いてありますが、それは乱暴な断定です。

2、鉄兜
旧陸軍の九十式鉄帽以外のものには見えません。

3、長靴
別におかしな形には見えません。本来、士官の長靴は自前の別あつらえですから、一人ずつ形が違っても不思議はないのですが、それにしても変わった様子はありません。左足の長靴の前面に黒い縦筋があるように見えるのは、日本刀の刀身の影でしょう。

4、ネッカチーフ
これは鉄帽の紐を蝶結びにしてあるのです。 特に将校に多いのですが、鉄帽の紐を戦国武将の兜の飾り緒のように大きく蝶結びにするのは、一種の戦場のおしゃれであって、珍しいものではありません。

5、刀の鞘
この写真では明瞭でない。腰には付けていないようにも見える。

6、水筒
日本軍の将校用水筒に見えます。水筒は肩紐で、左肩から右腰に下げて着用します。そのままだと行軍中や戦闘時に動いて邪魔になるので、「胴締め」という腰ベルトを装具の上から巻いて、動きを抑えます。

7、その他
左肩から右腰へのベルトがもう一本見えますが、これは拳銃嚢の肩紐です。右肩から左腰へのベルトは、図嚢と呼ばれる書類カバンのものです。

で、以上から結論は次の通りです。
軍装のほとんどは、日本軍の軍装品として不審な点はない。
これは戦闘状態の日本軍人ではない。
検証16

検証19

[27]腰より上の水筒の例

タラリ 
 
103 170 強姦後腹を裂かれた身体  抗戦画史   腹を裂かれた身体    
中国人は野蛮だが、「まさか」日本兵がやるはずはない・・・

まあ随分と身勝手な考え方だろう。マギー牧師の証言や日本軍兵士の証言を一度でも読んだことがあるのだろうか? 中国に押しかけ中国人銃剣を突きつけた。その結果のレイプと殺人。それは軍首脳部も痛恨のきわみと認識していた。

戦争が人間を野獣のように作り変えてしまう。『中国人は野蛮だが、「まさか」日本兵がやるはずはない』を容易に『中国人は野蛮なのだから我々もそのように対応すれば良い』に変えてしまう。戦争をやってはいけない理由はそこにある。

日本軍は、上海でさんざんてこずって多大な犠牲を払った。その憎しみと、補給不備のままの強行軍。食糧いっさい現地徴発の行軍。軍規を顧みること無いままに南京後略戦は遂行された。戦の勝てばすべてが不問に付されたのである。

もちろん、反省はあった。また、そうした「勝ち戦」がうわべの勝利に過ぎずむしろ「勝てない原因」であることを知る人も多かった。
"n/143"-103-5  
104 170 腹を裂かれ刺された婦人 抗戦画史    
腹を裂かれた婦人 
 
105 172 首かせをかけて殺す (日本兵)
侵華日軍
   
首かせをかけて殺す 
 
106 174 死んだ子供を生き返らせようと Life3801
ナンキン
中国兵や市民が写っていては、緊迫した雰囲気をあらわせないためであろうか、『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』はその部分を切り取って点線部分だけを載せている。 死んだ子供を生き返らせようと   
■どのようなトリミングをするかは編集方針によります。この事例ではトリミングによって写真の意味を全く違うものにしているわけではありません。なんらトリミングに疚しさは感じられません。

S.H教授がおこなったp93 写真C 写真D このような本質を覆い隠すトリミングこそ、邪悪な意図によるトリミングといえましょう。

■「日本軍の爆弾の破片で傷ついて死にかかっている息子を抱えている」という『ライフ』のキャプションも、「死んだ子供達を生き返らせようと死に物狂いで努力している」という『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』のキャプションも真っ当だと思います。

■東中野さんは「土嚢を積み上げた危険な最前線の城門に幼児がいること自体、不思議であり」といっていますが、どうしてここが「最前線の城門」なのでしょうか? うましかも休み休みにしてください。

アーチ型のゲートなどどこにもあります。また、4ヶ月も空爆を受け続け首都決戦を叫んでいる時期(12月6日)に、街じゅうに土嚢が積み上げられていることぐらい、犬や猫でも知っています。  
"n/143"-106   
107 175 殺された幼児が拾い上げられた Life3802
ナンキン
ところがこの写真の初出が『ライフ』1938年2月21日号であった。そこでその写真をよく見てみると、チョッキの胸にCHANSHI(善事)の文字が読み取れる。

これは、南京陥落後、日本軍特務機関指導のもとに埋葬作業を行った紅卍字会の「卍」とは明らかに違う。

また、埋葬作業は冬であったにもかかわらず、子供や周囲の人々の服はとても冬服には見えない。陥落後の南京とは無関係なのである。
殺された幼児が拾い上げられた   
■おやおや、冬服には見えない、という主観だけで「陥落後の南京とは無関係」とは、大胆な御主張ですね。

■どうやら東中野教授は、「埋葬作業を行なったのは紅卍字会だけではない」ということを認めてはならぬ何らかの理由があって、紅卍字会ではないから南京の写真でない、と無理やり主張しているものと思われます。

■チョッキの胸の印字については、いつもの掲示板で、きめ細かい検討がなされています。 『LIFE』埋葬隊の写真
攻略戦後の南京で「埋葬作業を行なったのは紅卍字会だけではない」ことは、揺るぎの無い事実のようです。
"n/143"-107   
108 176 盲目になった子供達が物乞い 特派員
毎画報49
この写真は子供による門つけのけなげな姿を示している

なるほど子供たちを見る兵隊達は、皆穏やかな楽しそうな表情をしている。
盲目になった子供達が物乞い     
■なるほど!広州攻略後の平和と安定を写した写真だというのですね。

■しかしこのような子供達が門づけして生活を営む、ということがどういう状況かはよく考えてみるべきでしょう。「孤児だろうか?」と想像力をめぐらせるのは極々自然のことです。

"n/143"-108からの抜粋です。
仏山というのは、広東省の広州市の南西20kmにある。広州は1938年10月21日に日本軍に占領された。『1億人の昭和史2』はそのときの攻略戦の孤児だろうかと言っている。南京戦ではない。『1億人の昭和史 2』の p214 の説明文は、13年10月占領の広東は以後3年間 平穏であった 攻略戦の孤児だろうか 盲目の少女の門づけが 仏山の町かどに(13年11月) である。東中野氏の紹介の範囲では、攻略戦がいつどこで行なわれたものかわからない。
 
"n/143"-108   
109 177 日本軍の戦車が民家を焼く? (日本兵)
歴史写真
新華社
南京
『ザ・レイプ・オブ南京』には「大虐殺の最中に南京の三分の一は放火によって破壊された。この写真では、日本軍が郊外の一軒の家に火を放っている」という説明があり、戦車が火を放ち日本軍が放火してまわったように見えるが、次の2点で誤りである。

1、写真の戦車は「九七式軽装甲車」で、南京戦の当時は生産されていなかった

2、「軽装甲車」は戦闘用の戦車ではないから、銃砲は持つが火炎放射器はもたない。

日本軍の戦車が民家を焼く?    
■東中野さんの文章って、何かとても不思議な文章ですね。

■日本軍が火をつけまわった、ということを否定したいのかと思ったら、誰も言っていない「戦車に火炎放射器を装着して火を放ちまくった」ことを否定するのに躍起です。

■「もしかすると、戦車に火炎放射器を装着して火を放ちまくった、というのは本当のことなのかなあ」と勘ぐりたくなります。

■写真が示しているのは、「九七式軽装甲車」が参加した日本の部隊が民家をめぐって戦闘しており、民家が炎上している、ということです。時期は、「九七式軽装甲車」ならば南京攻略戦よりも後の時期だということです。

■闘っているどちらが火をつけたのかは、不明です。どちらにも可能性があります。
===

■そうして、この写真が南京攻略時の放火の写真でないとしても、南京攻略時に放火がなかったことの証明にはなりません。一世代前の「九四式軽装甲車」が、放火と無縁だったかどうかも定かにはなりません。

■南京攻略時に軍規の乱れから、放火、出火が類発したことは、この写真ではなく、次の軍命令が証明しています。

 
▼陸軍省受領 陸支密受第六〇四一号
丁集参一第一四五号
杭州占領ニ伴フ秩序維持及配宿等ニ関スル件
十二月二十日 丁集団参謀長

杭州攻略ニ関シテハ特ニ左記諸件ヲ十分諸隊ニ徹底励行セシメラレ度依命通牒ス
左記

一、掠奪、婦女暴行、放火等ノ厳禁ニ関シテハ縷次訓示セラレタル所ナルモ本次南京攻略ノ実績ニ徴スルニ婦女暴行ノミニテモ百余件ニ上ル忌ムヘキ事態ヲ発生セルヲ以テ重複ヲモ顧ミス注意スル所アラントス

1.杭州及莫干山付近ニハ外人ノ権益又ハ別荘等相当ナル数ニ上ルヲ以テ作戦行動上万已ムヲ得サル場合、外厳ニ之ヲ犯ササルコト
 又諸隊ニ於テ戦闘ノ必要上其ノ権益ヲ犯シタルトキハ努メテ現地解決ノ手段ヲ講スルト共ニ機ヲ失セス集団司令部及最寄憲兵ニ報告及通帳スルコト

2、杭州ノ攻略ニ方リテハ城壁占領後直ニ主力ヲ市街ニ投入スルコトナク各一部ヲ以ッテ市内ノ掃蕩ヲ実施シ概ネ秩序ヲ恢復シタル後宿営警備地域ニ進入スルコト

3、第十八、第百一師団ヨリ歩兵各一中隊ヲ速ニ日本領事館附近ニ出シ集団憲兵隊長上砂中佐ノ指揮ニ入リテ補助憲兵タラシムルヲ以テ之ト密ニ連絡スルコト 本件ニ関シテハ別命ス

4、市街ノ諸設備ハ占領後ノ駐屯ニ必要ナルヲ以ッテ無用ノ破壊ヲ戒ムルハ固ヨリ失火等ニ拠ル火災ヲ発見シタル時ニハ速ニ鎮火ノ手段ヲ講スルコト

5、杭州市街ノ作戦地域ハ各部隊ニ於テ特ニ之ヲ厳守シ自戒互譲ノ精神ヲ以テ事ヲ処理スル如ク部隊ヲ指導セラレ度
検証108〜

n/143"-109
 
110 180 日本軍の放火? 特派員
歴史写真
侵華日軍
ナンキン
いずれにしても、写真110から112の説明がいうような市街地放火は、日本軍と断定できる証拠は何一つない。

むしろ中国軍が「一面火の海」とした放火のあとに燻る煙という可能性が限りなく高い 
日本軍の放火?    
■批判の対象になっているキャプションは、

「日本軍が南京の南門外大街で放火している情景」(侵華日軍南京大屠殺暴行照片集 昭和60年)

「日本軍、中華門付近の大街に放火」(ザ・レイプ・オブ・ナンキン 平成9年)

「建物の42%が放火によって消失し」(歴史の真実を語る足跡と証言 平成14年)

です。

これが、1)首都南京を放棄した中国軍の清野作戦による火災なのか 2)日本軍の砲撃や空爆による火災なのか 3)南京陥落後の「残敵掃討作戦時」の日本兵による放火なのか これらを判断するには、この写真が撮られた日時と場所がわかれば良いはずです。

■東中野さんの冒頭の記述を信じれば、写真のソースである『南京攻略戦写真帖』(昭和13年)には、「南京南門大街の火災」とあり、『ノースチャイナ・デイリーニュース』(昭和12年12月18日号)には「中山路の中国軍のバリケード」とありますから、「中山路から南京南門大街の火災をみた」ということになります。写真近景では、中国軍のバリケードを日本軍部隊が制圧しています。

■東中野さんも写真から分かったことは精々これぐらいなのでしょう。この写真は城内なのか城外なのかも読者に明示していませんし、いつ撮影されたのかの考察も深めていません。本当に確証があれば、撮影の日時、場所など、図面くらい添えてもよいはずです。

■にもかかわらず東中野さんは、『清野作戦で起きた大火が翌日以降に燻ったものだ』ということに関してだけは、明瞭です。水晶球でも使って68年前を透視したのでしょうか? 細い糸で類推したに過ぎないことが、ついには、『むしろ中国軍が「一面火の海」とした放火のあとに燻る煙という可能性が限りなく高い』との、断言になっています。こういうのを強弁(ムリ筋)というのでしょうね。

■ともあれ、この写真を「日本兵による放火の煙」と断定するには無理があります。それだけだったら私も東中野さんに同調したのですが、「放火=清野作戦」という信仰的単一思考にまで、追随することはできません。

■この写真がいつどこから撮影されたものか msq さんの考察をお読みください。 n/143"-110

■なお msq さんによれば、東中野さんが本の前半34頁に書いている記事に疑問を呈す。
南京防衛軍は、12月6日から「日本軍の進撃を非常に遅らせ、犠牲を多くさせる」ため、清野作戦を展開し、北門(ユウ江門)近くの下関、東門(中山門)付近、南門(中華門)付近を焼き払っていた。
この「南門(中華門)付近の火災」とは、この写真のことをいいのか? しかし、「南門(中華門)付近」とはまさにこの写真に家並みが写っている街のことではないのか? だとすれば、まだ焼き払われてはいない。焼き払われたのはこのあとだ?? ギョ!!

もしかすると、こうした矛盾を解消するために「潜伏していた便衣兵が占領後の南京の街に火をつけた」といい始める人が現れるかもしれません。
"n/143"-110   
111  
日本軍の放火?  
112  
日本軍の放火?  
113 182 多くの避難民が安全地帯に ナンキン 夏服、上海だろう  多くの避難民が安全地帯に    
 
検証165〜    

撮影者判明写真

114 182 何千人もの避難民が安全地帯に Kengel
-bacher

抗日解放
英国兵、夏の上海だろう  何千人もの避難民が安全地帯に     
英国兵ではないが、夏の上海。 
検証166   
115 183 南京を厳戒する日本軍 Kengel
-bacher

写真集
英国兵、場所は上海だろう  南京を厳戒する日本軍    
英国兵ではないが、夏の上海。 
検証165   
  マギーフィルムの写真(後半)
前半はこちら

■東中野氏は、マギーフィルムの写真検証を前段と後段の二つに分けた。その意図は何だろうか?

■マギーフィルムが大元のソースなら、それを取り上げて資料評価(批判)すればよいはずだ。マギーフィルムから見れば、『日寇暴行実録』は写真の2次使用であり、さらにずっと後出の『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』に至っては、4次使用とか5次使用といった類のものである。東中野氏の戦法は、そうした後次使用のキャプションにおけるアイマイさをネタにして、1次資料であるマギーフィルムの価値を貶めようとしている。

画像資料検証板[274-388]

 
 
116 189 捕虜の剔出連行 マギー
Mg-film
  剔出連行   
■「マギーによる解説書」による記述
(二)一九三七年一二月一六日。南京、上海路の中国人女性たち。息子や夫たちが元兵士の疑いで手当たりしだいに集められたため、脆いて日本軍にかれらの命乞いをしている。何千人もの一般市民がこのように縄で縛られ、下関の川岸や、池のへり、空き地に連れて行かれ、機関銃、銃剣、歩兵銃、さらには手榴弾で殺害された。
「マギーフィルムの解説書」に映像シーンを当てはめてみる
ビデオ『マギー牧師の証言』より
マギー・フィルムとは?
画像資料検証板[274-388]

"n/143"-116-24

 
117 190 13歳の少年 マギー
Mg-film
  13歳の少年   
■「マギーによる解説書」による記述
(六)この少年は、日本軍が常州を通過したとき、かれが呉淞からきた難民であったにもかかわらず、日本軍によって連行された。かれは一三、四歳で、およそ三週間、日本軍の下でかれらのために働いた。

一二月二六日、二日問まったく食べ物を与えられなかったので、仕えていた兵士に家に帰りたいと言った。すると、かれらは少年を鉄の棒で叩き、頭を銃剣で刺した。この映像は、かれが血まみれで診療所に運ばれてきた直後に撮られたものである。かれは回復した。
「マギーフィルムの解説書」に映像シーンを当てはめてみる
 
118 191 移動する難民女性 マギー
Mg-film
  13歳の少年   
■このシーンについては、「マギーによる解説書」には記述がない。
「若い女性たちがいかにも危険な状況から逃れるため、別のキャンプに移ろうとしているかのように見える。しかし写真118を拡大してみると、女性の笑顔が映っている。」
⇒ 危険な状況から逃れられるから表情が明るいのである。("n/143"-116-24より)
⇒字幕テロップがついた動画をみる。
Nanking AtrocitiesIntroductionClick here to see
female refugees moving one camp to another in search of safety.

⇒別のコマの画像をみる>m-13-1.jpg

 
119 192 死体を前に立ちすくむ老婆 マギー
Mg-film
  「夏琴淑さん事件」参考画像その1
「夏琴淑さん事件」参考画像その1


「夏琴淑さん事件」参考画像その2
「夏琴淑さん事件」参考画像その2


「夏琴淑さん事件」参考画像その3
「夏琴淑さん事件」参考画像その3


死体を前に立ちすくむ老婆
写真119

 
 
■この事例は「夏琴淑さん事件」として知られています。「マギーによる解説書」による記述
(九)一二月一三日、約三〇人の兵士が、南京の南東部にある新路口五番地の中国人の家にやってきて、なかに入れろと要求した。戸は馬というイスラム教徒の家主によって開けられた。兵士はただちにかれを拳銃で撃ち殺し、馬が死んだ後、兵士の前に跪いて他の者を殺さないように懇願した夏氏も撃ち殺した。馬夫人がどうして夫を殺したのか問うと、かれらは彼女も撃ち殺した。

夏夫人は、一歳になる自分の赤ん坊と客広間のテーブルの下に隠れていたが、そこから引きずり出された。彼女は、一人か、あるいは複数の男によって着衣を剥がされ強姦された後、胸を銃剣で刺され、膣に瓶を押し込まれた。赤ん坊は銃剣で刺殺された。

何人かの兵士が隣の部屋に踏み込むと、そこには夏夫人の七六歳と七四歳になる両親と、一六歳と一四歳になる二人の娘がいた。かれらが少女を強姦しようとしたので、祖母は彼女たちを守ろうとした。兵士は祖母を拳銃で撃ち殺した。妻の死体にしがみついた祖父も殺された。二人の少女は服を脱がされ、年上の方がニ、三人に、年下の方が三人に強姦された。その後、年上の少女は刺殺され、膣に杖が押し込まれた。年下の少女も銃剣で突かれたが、姉と母に加えられたようなひどい仕打ちは免れた。

さらに兵士たちは、部屋にいたもう一人の七、八歳になる妹を銃剣で刺した。この家で最後の殺人の犠牲者は、四歳と二歳になる馬氏の二人の子どもであった。年上の方は銃剣で刺され、年下の方は刀で頭を切り裂かれた。

傷を負った八歳の少女は、母の死体が横たわる隣の部屋まで這って行った。彼女は、逃げて無事だった四歳の妹と一四日間そこに居続けた。二人の子どもは、ふやけた米と、米を炊いたとき鍋についたコゲを食べて暮らした。

撮影者は、この八歳の子から話の部分部分を聞き出し、いくつか細かな点で近所の人や親戚の話と照合し、修正した。この子が言うには、兵士たちは毎日やってきて、家から物を持って行ったが、二人の子どもは古シーツの下に隠れていたので発見されなかった。

------------------
このような恐ろしいことが起こり始めると、近所の人はみな、難民区に避難した。一四日後、フィルムに映った老女が近所に戻り、二人の子どもを見つけた。彼女が撮影者[の私]を、死体が後に持ち去られた広々とした場所へ案内してくれた。

彼女と夏氏の兄、さらには八歳の少女に問いただすことによって、この惨劇に関する明確な知識が得られた。このフィルムは、同じころに殺害された人の屍の群に横たわる一六歳と一四歳の少女の死体を映し出している。夏夫人と彼女の赤ん坊は最後に映し出される。
画面に写っているのは、マギー牧師を現場に案内した、近所に住んでいた老女である。

「マギーフィルムの解説書」に映像シーンを当てはめてみる

■東中野氏は、"写真に映っている老女" と "生き残り少女の叔母「王芝如」" とを、わざと同一人物と混同させている。(P192)
それから50年、この写真と思われる老女性・・・
なんの根拠も無い思われるである。
 
 
120 194 安全地帯 (Mg-Wit) 上海の安全地帯だろ   

映画『バトル オブ チャイナ』(1944アメリカ)の映像が紛れ込んだものと思われます。

   
121       
122 194 壊れた建物 (Mg-Wit) 上海などだろ    

別の映像が紛れ込んだものと思われます。

   
123 196 生埋め not-Mg マギーのフィルムではない   これは何か映画の再現シーンか?エイゼンシュタイン調(笑)。確かにマギーのフィルムではない。

映画『バトル オブ チャイナ』(1944アメリカ)の映像が紛れ込んだものと思われます。
   
124      
125 197 中華門? スチール 壁に「仁」の字があるから中華門だ。   
  
■中華門であって、ゆう(手偏に邑)江門ではありません。例によって『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』編集者の早とちりです。困ったものです。

■写真説明として東中野氏が紹介した文章は、ゆう江門の惨状としては間違っていないと思います。

■したがって問題となるのは、後世の『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』編集者の手抜かりですから、スティール記者が紙面に掲載したかしないかの判断とは、全く無関係です。

■世界に発信された南京事件のファーストレポート、『シカゴデーリーニュース』の記事は米艦オアフ号より電報で発せられたものです。写真を電送することはできません。15日に発信して同日に記事となった新聞に写真を掲載することなど、どう逆立ちしてもできないのです。
スチール記者はこれらの写真を撮っておきながら、自ら書いた新聞記事に、自ら撮影した写真を一枚も掲載していない。なぜだろう。
状況を熟知していながら書いたこの文章は、世界第1報発信者スティール記者を貶めるためのものでしょうか。

■スティール記者の世界発信第一報は、ゆうさんが収録しています。スティールの記事
   
126 198 連行される中国兵 スチール これを撮影したスティール記者は、「こうして拘引されていって銃殺されたのだと思われます」と推量しているだけで、銃殺を確信していなかった。  
  
「こうして拘引されていって銃殺されたのだと思われます」
これは確信がなければ書かない表現です。もちろん銃殺されないことをスティール記者は願ってはいたでしょうが。

反対に
"と推量しているだけで銃殺を確信していなかった"
・・・こんな文章を書く東中野氏の心性を想うと、ゾクゾクっと血が凍って参ります。  
   
127 199 市内掃蕩放火 スチール 4人の日本兵のうち2人がカメラのほうを見ている。ということは、彼等はスティール記者が自分たちの行動をカメラに収めていることを認識していたことになる。日本兵が不謹慎かつ不都合な撮影と判断していたならば、厳重抗議ないしはフィルム没収の挙に出たことであろう。

しかしそうならなかったということは、占領直後の軍隊がしなければならない掃蕩という重要な課題をスティール記者が写していると了解済みであったことを意味していた。 
 
  
■東中野氏が何故ここまで力説するのか、私にはとても不思議です。

火付け犯行の瞬間をとらえた写真であるとか、画面の中の兵士が火付け実行犯でるとか、そんな主張を誰もしてないのにです。

■東中野氏はきっと、兵士の全員が『火をつけまわった』のでなければ、誰一人として『火をつけなかった』ことになる、とでも思っているのでしょうか。隠れている中国兵、中国人をいぶりだすために火をかけた、とすれば日本兵には疚しさはなかったとも考えられます。なお、阪神大震災でも分かるように、失火地点がさほど多くは無くても消火作業がなければ大火災になります。

■東中野氏は別の論点で、難民区ではない掃蕩対象の街には『人っ子ひとりいなかったのだから民間人の虐殺など起こりようがない』と強調しています。だとしたら、人っ子ひとり居ない街で上がる火の手とは、一体何だったのでしょうか?

   
128 199  
  
 
       

見過ごせない文章

写真からは離れますが、P.196で東中野氏が書いている以下の文章は、見過ごすことが出来ません。スティール記者を一方的に貶めるものだからです。
アーチボールド・スティール氏は『シカゴ・デイリー・ニューズ』の特派員であった。十二月十五日、南京を離れるやいなや、ただちに「南京虐殺物語」を打電して、十二月十五日(日本時間十六日」付『シカゴ・デイリー・ニューズ』に掲載している。

しかしその記事はティンパーリ編『戦争とは何か』の第一章とほぼ同じであったことから、そのニュースソースは宣伝本のティンパーリ編『戦争とは何か』(第一章)の執筆者マイナー・ベイツ師であったことが判明しており、しかも記事内容は事実と大きくかけ離れていることも検証済みである。(詳細は『南京「虐殺」研究の最前線』平成15年度版、二七五頁)
東中野氏の主張はムチャクチャです。
1)しかしその記事はティンパーリ編『戦争とは何か』の第一章とほぼ同じであった。

2)そのニュースソースは宣伝本のティンパーリ編『戦争とは何か』(第一章)の執筆者マイナー・ベイツ師であったことが判明しており
東中野師の主張を鵜呑みにせず、ベイツ師の文章とスティール氏の記事全文を、素直に読み比べれば、東中野教授の間違いが誰にも分かるはずです。



※原典資料は、すべてゆうさんのサイトにあります。南京事件 小さな資料集

1、スティール氏の記事
2、ベイツの手記(『戦争とは何か』の第一章前半のベイツ「レポート」)
3、東中野氏の徹底検証 番外3 ベイツ文書と新聞記事 (東中野師の論考とそれへの批判)="判明" とか "検証済み" とか大言壮語の程度がわかります。

※なお、東中野氏がベイツ師を国民党顧問だと断定しているトンデモな根拠もあばかれています。

4、東中野氏の徹底検証 番外2 ベイツ=中華民国顧問説

   
129 201 棲霞山のセメント工場の仮手当て所と施薬所1938年3月 フォスター 3月ならすっかり平穏になっていたので「南京陥落後3ヶ月たっても殺人はやまなかった。」は間違いだ。  
  
では東中野さんにお尋ねしましょう。すっかり平穏な状態のなかで竹篭に担がれて運ばれているのは一体何なのですか? 仮手当て所に運び込まれるのは、病人か、怪我人か、あるいは遺体ですね。それとも、セメントでも運んでいるとでもいうのですか?

あなたの文章にはそういう人間的な視点が、微塵も感じられませんね。
「写真をみたらそのことが一番気がかりです。平穏になった3月になっても、遺体、もしくは病人が運ばれているのか? そんなはずはないと思うが、慎重に調べなければいけないな」
と思うのが普通のニンゲンではありませんか?

あなたが大学の研究費という浄財を使って米国イェール大学図書館までいき、ベイツ資料を調べたなら、南京攻略戦のなかで当時の外国人がどのような赤十字活動(人道活動)をしたのかぐらい、読者のために噛み砕いて説明したらどうですか?

そういえばあなたは、「1月20日頃には平穏になった」だけを強調して「南京陥落後3ヶ月たっても殺人はやまなかった。」という『ザ・レオプ・オブ・ナンキン』の言い過ぎを糾弾しています。しかしよく考えれば、そのまえに、「1月20日頃までの日本軍の蛮行」について、あなたはどのような態度をとるのか、あなただったらこの僧侶達の嘆願に対してどう答えるのか、姿勢を表明しても良いのではありませんか?

もし、それを全くほっかむりするような御仁が守備隊長になったら、第六十号文書に書かれていたような蛮行は、3ヶ月どころか何年でも止むことが無かったでしょうね。

南京城の北西20キロの棲霞山寺は、いまでも観光名勝となっている古刹、大寺院です。《棲霞山寺の場所》。日本軍が上海から南京へと北進を始めるや、棲霞山寺には日本軍に追われるように難民が駆け込んだそうです。また、南京攻略戦が始るや南京郊外からも難民が集まりました。《資料》「栖霞寺1937年」8月公開へ

そこで起きた、日本軍によって繰り返された強姦と略奪。告発したのが、南京安全区国際委員会第六十号文書「棲霞山寺よりの覚書」です。その全文

棲霞山のふもとのセメント工場敷地内にも、ドイツ人とデンマーク人が管理する「安全区」として難民キャンプが作られました。棲霞難民キャンプ

棲霞山の高僧たちが連署した抗議の手紙が、セメント工場キャンプのデンマーク人シンドバーグを仲介して、南京の国際委員会に渡り、それが日本の領事館にわたったと思われます。

高僧たちの手紙は、一時的に事態は良好になったものの、抜本的な対策を取らない限り、略奪と強姦は収まらないと考えたからこそ、連名で認められたのです。手紙の中で新任の注意を褒め称えているからといって、これが『感謝状』でないことは明らかです。ケンカ腰の文面にならないように書かれた、切実なる嘆願書です。
 ここに避難している難民の八〇パーセントは所持品を一切失い、家をこわされ、家畜を殺され、貴重品を盗まれたものであるます。多くの婦人は夫を失い、子供たちは父親を失いました。成年の大半は日本軍によって殺されたのであります。多くのものが負傷者・病人であり、医療はまったくおこなわれておらず、射殺されるのをおそれて街道を歩くものもありません。米の残りもきわめて乏しくなっております。水牛もなく、種籾もないのに、どうして農民が春になって農作業をすることができるでしょうか?

 われわれ、以下に署名した者は、わが住民を助けて頂くよう、貴下にお願いする次第であります。
これを「もう事態は解決した証拠だ」などと言いくるめて嘯く人物に出会って、 私は今、しずかに『卑劣な奴め』とつぶやく裕次郎のせりふを、50年ぶりに思い出しました。  
"n/143 + α"129-30  
130 201 南京、太平洋ホテルに宿営する日本兵、3月17日 フォスター ザ・レイプ・オブ・ナンキンの
「一人の日本兵が子供を捕らえて、金目のものがないか身体検査をした」
はでっち上げである。
 
  
「一人の日本兵が子供を捕らえて、金目のものがないか身体検査をした」
日本軍ならそのくらいのことはやりかねない、と中国人に思われてしまっていたのですね。『残念です』、というのが私の感想です。
 
131 204 「百人斬り競走の両将校」常州にて佐藤特派員 佐藤振寿
日日
a 記事の中に写真131が挿入されたことが、読者を惑わしたのである。そう考えると『東京日日新聞』が11月下旬撮影の写真131を、12月10日正午撮影の写真であったかのようにつかった責任は大きい。

b いずれにしても、ここで検証したように、まず新聞記事から写真131を除かなくてはならない。つぎに、浅見記者の書いた記事を俎上に載せて、資料批判に耐えられるかどうかを見極めなくてはならないのである。 
  
 
■a は面白い主張です。この文章を書いた人はきっと、生まれついた時には既に人工衛星が何百も飛び回っており、その日に撮影した写真はその翌日の新聞には必ず掲載されると信じきっている世代のなかの、中学生以下の人に違いないでしょう。なぜなら高校生ともなれば、日中戦争時の通信事情に思いをめぐらすぐらいの事は、必ずするでしょうから。

私は、11月29日に常州で撮影された写真が、12月13日に掲載されたことを、当時の通信事情として理解していました。

なお、東京日日新聞の親会社である大阪毎日新聞には、12月7日朝刊の記事に同じ写真が掲載されています。東京日日新聞の12月6日付朝刊には写真の転送が間に合わなかったのでしょう。(おそらく東京-大阪間も東海道線特急で運んだ)

■なお、11月29日に常州で撮影されたというのは、11月29日常州発の記事東京日日11月30日朝刊大阪毎日があります。しかも11月29日という日付は日本軍の行軍記録とも一致しています。

■東中野教授は、当時の通信事情も顧みず、写真は撮影した日の取材記事に載せなければならない! と我が儘をおっしゃる。ならば、11月29日常州発の記事に写真を添えて進ぜよう。

これは東中野教授の迷論を試しに形にしたもので、このような記事が実際にあったわけではありません
東京日日新聞
1937年(昭和12年)11月30日朝刊 第1報
百人斬り競争!両少尉、早くも八十人
[常州にて廿九日浅海、光本、安田特派員発]
常熟、無錫間の四十キロを六日間で踏破した○○部隊の快速はこれと同一の距離の無錫、常州間をたつた三日間で突破した、まさに神速、快進撃、その第一線に立つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた二名の青年将校がある。

無錫出発後早くも一人は五十六人斬り、一人は廿五人斬りを果たしたといふ、一人は富山部隊向井敏明少尉(二六)=山口県玖珂郡神代村出身=一人は同じ部隊野田毅少尉(二五)=鹿児島県肝属郡田代村出身=銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば野田少尉は無銘ながら先祖伝来の宝刀を語る。

無錫進発後向井少尉は鉄道路線廿六、七キロの線を大移動しつつ前進、野田少尉は鉄道線路に沿うて前進することになり一旦二人は別れ、出発の翌朝野田少尉は無錫を距る八キロの無名部落で敵トーチカに突進し四名の敵を斬つて先陣の名乗りをあげこれを聞いた向井少尉は奮然起つてその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せた

その後野田少尉は横林鎮で九名、威関鎮で六名、廿九日常州駅で六名、合計廿五名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近で四名斬り、記者等が駅に行つた時この二人が駅頭で会見してゐる光景にぶつかつた。

向井少尉

この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらゐ斬ることになるだらう、野田の敗けだ、俺の刀は五十六人斬つて歯こぼれがたつた一つしかないぞ

野田少尉

僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしてゐます、僕は○官をやつてゐるので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ


どうですか? 東中野教授が仰るようにお造り(シミュレート)してみましたが 記事が読者に与える信憑性は消えうせましたか?

■b はもしかして、日日記事が両少尉の話に基づいて、両少尉の承諾に基づいて成立していた、ということを、教授は消し去りたいということでしょうか。このサイトのもう一つのコンテンツをお読みください。⇒読める判決「百人斬り」- Hypertext 東京地裁判決〔8/23〕  
   
132 208 荷物を運ぶ(日本兵) 佐藤振寿
日日
たしかに乳母車は兵隊の持ち物ではない。誰かが長い戦闘の疲労と30キロもある背嚢の重さに耐えかねて、どこかで失敬したのかもしれない。しかし佐藤氏が・・・。この写真からは民衆の財産を略奪したという証拠も、それらを運んでいるという証拠もなにひとつ見受けられないのである。   
  

■左で「しかし佐藤氏が・・・」と中略したのは、東中野氏が略奪の開き直りに佐藤氏の言を借りる卑怯に閉口したからです。

ここでは、「勝手に乳母車を失敬したこともドロボウには違いないが、情状酌量してくだされ」というべきところではないでしょうか。それを、「民衆の財産を略奪したという証拠も、それらを運んでいるという証拠もなにひとつ見受けられない」とまでいってしまっているのですから、東中野氏とは、「略奪を失敬」といい「強姦も失敬」と開き直る人だ、と思われてもしかたないでしょう。

佐藤振寿氏まで心底卑しい仲間に引き込んでどうする!

■乳母車ぐらい・・大八車ぐらい・・馬車ぐらい・・舟ぐらい・・雑穀ぐらい・・羊ぐらい・・女ぐらい・・・そんなもの失敬したって略奪でも強姦でもないのだ。

そこまで居直らなければ戦争なんかできやしないさ、という信念でしょうか。

   
133 209 不動健治氏自身によるキャプションを調査していない 不動 中華西門から中華門にかけての城外と推定され「中山路」や「中央路」とは全く違うのである   
  
■同盟通信の従軍記者であった不動健治氏は、戦後「南京虐殺事件」を啓蒙するために積極的に活動しただけに、東中野氏の批判の対象になったのでしょう。しかし東中野氏による批判の仕方は、誉められたものではありません。

■この写真についていうと、不動氏本人によるキャプションが何かを求めもせず、『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』による「中山路と中央路は死の道路となった」を振りかざしています。そしてそれが、あたかも不動氏によるご都合主義であるかのようにスリカエを行っています。

■考証無頓着の『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』を山車に使って、南京事件に対する常識的な判断すら葬り去ろうとするやり方は、この本全体では一貫した基調です。『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』は日本語版出版が頓挫したもので、日本の一般国民には普通手にすることができません。そんなレアものが批判されても検証のしようがありません

誠実な論争ではなく罵倒合戦を行おうとするものには、そうしたやり方が有効なのかもしれませんが。

■また、不動氏自身の文章を何一つ引用することなく、佐藤氏の引用によって不動批判を行わせているのも、けっして堂々とした態度とはいえません。

■多くの死体が写っているような衝撃的な写真においては、撮影者自身の現場証言こそ重要です。そんな自明のことが無視されています。あとで登場する村瀬氏の写真に付いても、東中野氏は、撮影者本人のキャプションに耳を貸そうとしません。
「撮影者が分かっている写真で虐殺肯定に繋がるものは、本人によるキャプションは自分に不利だから無視する。写真には絶対添えてはならない!」
どうやらこれが、本書の編集方針のようです。(批判しやすい『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』のキャプションが、必ず掲載写真に副えられていることに留意してください)  
"n/143+α"   
134 210 中華門外側 不動 手前の死体を見ると、たしかに鉄兜をかぶった兵士が見える。日本軍と闘ってたおれた中国兵なのである。その写真説明は次のようになっている
「南京虐殺と捕虜収容所-----」
 
  
■「図説昭和の歴史」はおそらく不動氏も編修に携わった本でしょう。東中野氏はようやく本人の目をとおしたキャプションを引用しました。

 (←クリックで拡大)
ところがどっこい、東中野氏は二枚組みの写真の片方しか見せずに、不動氏のキャプションがいかにドキュ〜ンであるかを、捏造したのです。これは、msq さんが、わざわざ図書館にいって「図説昭和の歴史」を開いて気がついたとのことです。"n/143+α"134 
   
135 212 捕虜対処組写真 不動 組写真に「兵市民の区別のつかぬ捕虜軍と殺害された人々」とあり、この捕虜収容所で次々と捕虜が殺されたような印象をあたえる  
  
■ここで挙げられた稲垣獣医のフィルムはぜひ一度見てみたいものです。しかし、そこに写っている情景が捕虜虐待で無いから殺害が行われなかった、とはいえないと思います。虐殺の直前直後でなければそうした緊張感はあらわれなかったでしょう。

■多くの文献に顕れている捕虜虐殺は、捕虜として収容されてからの虐殺ではなく、捕虜として収容しないための虐殺です。また、「日本兵より捕虜のほうが多いのだから、暴動がおきないように和気藹々としていなければならない」というのも珍妙な理論です。僅かな兵で大量の投降兵を手中にしたが故におきた虐殺が別のところで現に起きています。(幕府山事件)

■下麒麟門(南京城外の紫金山の東)に通常の捕虜収容所があったというなら、きちんとした軍公文書などもきっと見つけて頂きたいものです。

 

近代百年史15集 近代百年史15集の内容 『図説 昭和の歴史6大戦への道』(集英社 1980年)の58頁と59頁

■不動氏の写真に付いては、msq さんが、東中野氏による引用の元となるものを詳しく検証しています。
不動氏が撮影した写真の中には、検証の対象とすべきでありながら東中野氏がスルーした虐殺写真がまだまだあるようです。"n/143+α"135
 

検証267〜   
136 216 南門前の激戦の跡 松尾 『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』の説明は「激戦の跡」が不許可写真になったことをとらえて、それを「虐殺の現場」にすり替えたのである。  
  
■msq さんは、小銃が死体の周りに散らばっていることから「激戦の跡」を否定するものは今のところないとしています。 "n/143"136そうして、東中野氏の意図を次のように分析しています。
「激戦」という言葉について関して言うと、中華門付近で激戦のあったことは確かである。しかし、南京裁判で第六師団長谷寿夫が死刑判決を受けたことで分かるとおり、中華門周辺で、これらの写真が直接示している出来事とは別に、多くの虐殺があったことは事実である。中華門に関して取り上げた、写真125、写真133、134、136 が戦闘の跡を示すものとしても、それらの虐殺を否定するものでないことは忘れてはならない。戦闘もあったが、虐殺もあったのである。教授の狙いは、これらの写真が、虐殺現場の写真でないことを示すことで、中華門周辺で広範に起きた虐殺を否定することではないだろうか。
■ 中華門付近での虐殺についてはこんな資料も有ります「板取村」従 軍 譚  
   
137 217 缶詰を盗んで捕らえられた中国兵(不許可) 松尾 「缶詰を盗んだ」が「撤退に遅れた」に変わり、「正規兵」が「一般市民」に変わっている   
  

■『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』の「上海の近くの月浦鎮で進行中の中国人の殺害」はどうかと思いますが、『日本の侵略・中国朝鮮』の「撤退に遅れ捕らえられた中国軍兵士、月浦鎮付近。『対外的不利』としてこれも発表不許可」は、毎日新聞社刊の『1億人の昭和史 10 不許可写真史』を忠実に踏襲しています。

msq さんは次のようにして記しています。
毎日新聞社刊の『1億人の昭和史 10 不許可写真史』の4ページに、『日本の侵略 中国朝鮮』と同じトリミングの写真があり、説明は「第二次上海事件の激戦地呉淞砲台の北 黄浦江河口にちかい月浦鎮付近で撤退におくれて羽田部隊渡辺隊に捕らえられた中国国民政府軍直轄兵士 不許可理由は陸軍省令にある対外的不利な事項とされた」となっている

撮影者の元大阪毎日のカメラマン松尾氏自身のメモは「日本軍の缶詰を盗んでゐた正規兵を捕らへる。月浦鎮南方」とされる。松尾氏は正規兵を捕らえたと明確に書いている。缶詰を盗んだ単なる盗人を捕まえたとは書いていない。正規兵が逃げ送れた原因は缶詰を盗んでいたからと言うことではないだろうか。

著者は「缶詰を盗んだ」が「撤退に遅れた」と変えられたといっているが、もしそうだとしても、そのように書き直したのは松尾氏も含めた毎日新聞社である。常識的に考えれば逃げ遅れたから捕まったのであり、そのようなことが理解できずに検証とは恐れ入る。"n/143"137
不許可写真 不許可写真が軍事郵便はがきになった例(南京ではない)  
   
140 221 中華門外側より撮影 村瀬 (東中野氏の村瀬否定論)
1、「第一線に近づくにつれて、部落を通過するたびに、虐殺死体が目立ちはじめました」ということからしてウソくさい。そもそも、戦場に好き好んで残る村民はいない。

2、村瀬氏の部隊が足止めされたという言い方が気にいらない

3、婦人や子供も混じっているようでした、は目撃談ではない。

4、対岸に逃亡しようとした中国兵の戦死体か、上流の激戦地から流れ着いた戦死体に決まっている。

5、だから、軍服を脱いで裸になった中国兵なのである。

    
(撮影者本人による解説文)
 南京の攻略が大幅に遅れたので、第一線部隊の兵隊は、厳しい命令を受けて、目が血走っていました。
 小休止で一緒に休んだ時の話をきくと、「南京一番乗りは師団の至上命令だ。南京へいけば、女はいくらでもいるし、酒もある。速くいったものは、やりたいほうだい、なんでもやれるぞ」と上官からハッパをかけられているのです。
 戦国時代の将軍が、敵の都市を攻略するときに、部下の将兵に、獲物を与えたと同じやり方が、南京攻撃にも使われていたのです。
 十二月十日午後五時、脇坂部隊がようやく光華門の城壁に、日章旗を翻し、続いて十三日夕刻には、十六師団が中山門を占領し、完全に南京を制圧しました。  私達輸送部隊はなぜか、二週間ばかり、城内に入ることを許されず、城外に足止めされていました。  
   
138 219 下関埠頭の河岸を埋める死体(1) 村瀬 下関埠頭の河岸を埋める死体(1)    
(撮影者本人による解説文)
(17)大虐殺のうわさが…
 ようやく足止めが解除されて、ある日、荷物受領に揚子江岸の、下関埠頭へ行きました。すると、広い河岸が一杯に死体でうまっているのです。 岸辺の泥に埋まって、幅十メートル位はあろうか、と思われる死体の山でした。
 揚子江岸で大虐殺が行われた、というその現場でしょうか、軍服を着た者はほとんどなく、大部分が平服の、民間人で、婦人や子供も交じっているようでした。
 死体に油をかけて、焼こうとしたため、黒焦げになった死体も、数多くありました。 死臭で息もつけない中を、工兵部隊が、死体を沖に運んで流す作業をやっていましたが、こんなやり方では、一〜二ヵ月はかかりそうでした。

(撮影者本人によるキャプション)
揚子江岸には、おびただしい死体が埋められていました。虐殺した後、河岸へ運んだのでしょうか、それとも河岸へ連行してから虐殺したのでしょうか。

(東中野氏のトンデモ論に返答) 

A0,不可思議なのは、東中野氏は他では写真引用元のキャプションを紹介して批判しているのに、村瀬氏の写真に限って撮影者本人でありながらキャプションは一切無視しています。読者が村瀬氏に近づくことを妨げているかのようです。(知りたい方は:私の従軍中国戦線 新版 村瀬守保写真集

A1,好き好んでではなく、残らざるを得ない、逃げるのではなく隠れる、というのが農民です。

A2,入城を許されなかったことを足止めという。一兵士がのこのこ虐殺を確かめに行くはずが無い。

A3,目撃していなかったら、「婦人や子供も混じっているようでした」とは普通いわない。ただし、「そのようでした」になると伝聞にちかづく。

A4,手を後ろに縛られた死体は、縛られてから逃亡したのか、縛られてから戦闘したのか? 妙な理屈だ。『虐殺は無かった』を守るために長々と戦闘の描写をしているが、激しい戦闘があったからといって、虐殺が無かったことの根拠にはならない

A5,裸になったのはなぜか? また、なぜ上半身裸で後ろ手に縛られているのか?
タラリ
「プロパガンダ写真研究家」松尾一郎の目の節穴度: 村瀬守保撮影写真編


[写真とは別:参考]生きながら焼かれた記録
 
139 219 下関埠頭の河岸を埋める死体(2) 村瀬  
下関埠頭の河岸を埋める死体(2)  
 
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油をかけられて焼かれた死体 村瀬 油をかけられて焼かれた死体(1)    
(撮影者本人によるキャプション)
虐殺されたのち薪を積んで、油をかけられて焼かれた死体。ほとんどが平服の民間人でした。
 
141 225 遺体を沖に押し流す 村瀬 6、虐殺を隠蔽する船の作業のように思えるだろうが、疫病予防の観点から沖に押し流していたのだ

7、当時はだれも「虐殺」だなんていっていない
遺体を沖に押し流す    
(撮影者本人によるキャプション)
工兵隊が死体に鈎を引っ掛けて、沖へ流す作業をしていました。一回に数体ぐらいですから、こんなやり方では二ヵ月以上もかかりそうでした。

A6,「虐殺を隠蔽する船」とは村瀬氏もいっていない。それに隠蔽し様も無い。アホな想定をしてそれを貶す、詭弁術入門。

A7,表立って「虐殺」だなんていったら、上官や司令部に対する批判になってしまう。東中野氏の頭の中の「皇軍」は、上官や司令部を批判することも自由な、空想の軍隊らしい。  

虐殺と言う言わないもありません。戦争がキレイ事でないとはこういうことです。藤原審爾氏の小説、「みんなが知っている」(1957年) の一節です。
  さて、現場で、私たちは将校から屍体を揚子江へ投げ込む作業を命じられました。その時には誰しもが慌てて手拭で鼻と口を覆ったほど、名状しがたい悪臭がたちこめていて呼吸苦しいくらいでした。

  「俺たちは、死んだ人間をいじりに、大陸まで来たんじゃねえぞ」
 そんな呟きも聞こえました。実際こんな仕事にくらべれば、危険でも敵と戦闘している方がましでした。

  比較的仕事のやり易い川岸近くから、私たちは顔をしかめ、無口になってのろのろとはじめました。他の隊からもかなりの数の兵隊がかり出されていましたが、どんなに馬力をかけたところで、この厖大な焼死体を簡単に片づけられる筈はありません。
  私たちは、<作業終り>の命令が出るのを今か今かと待ちながら、緩慢に動いているだけが精一杯でした。将校も、平素の倣岸さを失い、妥協的な態度で、
  「一人あたり十個も放り込めば休んでくれや」
 などという始末です。

  冬とはいえ、生憎と天気がよかったので、気温が上昇するに従いますます手のつけられぬ有様になりました。夜中の寒気に凍っていたのがゆるみはじめると、悪臭はいよいよ烈しくなってきました。誰かが考えだして、川岸の楊柳を切り、先端を尖らすとそれを魚又のように使って屍体を二つ三つと櫛刺しにし、それを二人一組で水際までひきずって行きました。

  一番上の屍体は黒焦げになっていますが、一重二重、下になるほど生身に近く、体重をかけてウンショと突き刺すと群血が飛び散って、地下足袋、巻脚絆は血泥がしみこみ、ぐちょぐちょになりました。
  「いくらやったって駄目だァ。同じじゃねえか」
  「野郎ッ、嬶アに泣き目を見せて南京くんだりまで来てよ。チャンコロの隠坊たあ何だ」
 鼻を突く腐臭と、焼ぶくれの屍の山を見て私たちはむしょうに腹が立ってきました。

 水際に捨てた屍体も、溜水に浮んだ塵芥のようにいたずらにその層を拡げていくばかりでした。ニ、三人の兵隊が小舟で屍体の溜りの中に漕ぎ入れ、水の流れに乗せようとかかりましたが、五つか六つ流れに押し出したきりで、あきらめてしまいました。
 
  午後三時頃までで私たちは勝手に作業を打ち切りました。将校も黙って知らん顔をしていました。
  「この後始末をどうしてつけるつもりだろう。もう一度あらためて焼きなをしでもするのだろうか」
 私は心の片隅でぼんやりとそんなことを考えていました。犠牲者の怨みが、日本軍の湮滅作業を許さないかのようにも思えてくるのでした。

幕府山事件 資料集より
 
   
142 228 遺体を沖に押し流す 井出 このように下関の死体を見たり、実際に水葬に携わった人たちが多くいた。しかしその人たちの誰ひとりとして、当時虐殺体という人はいなかったのである。   
  
   
143 228 銃声をきいていって見たら老人が倒れていた 村瀬 この写真は村瀬氏の写真集に掲載されていないから本人が撮影したものか怪しい      
村瀬氏の写真集(新版)には掲載されているそうです。残念!

(撮影者本人によるキャプション)
  近くを歩いている人のなかから、怪しい男がいる、と部隊の裏手へ連行した兵隊がいたが、じきにドスンと銃声がきこえ、行ってみると老人が倒れていた。ただの物売りの老人にすぎなかった。 
検証32  

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